• 略年譜

    2017.4.8

    1909年(明治42年)3月8日 宇都宮に生まれる。小・中学と1年飛び級
    1924年(15歳) 第一高等学校(現・東大駒場)入学
    1927年(18歳) 東京帝国大学法学部仏法科入学。進路に悩み、10月退学
    1928年(19歳) 九州帝国大学法文学部哲学科入学
    1931年(22歳) 九州帝大卒、卒論はH・コーエン論。5月より副手。
    1932年(23歳) 小笠原としと結婚。西田哲学に没頭する
    1933年(24歳) 西田論「一般概念と個物」が「思想」に掲載。西田から激賞される。フンボルト協会給費生として10月にドイツ留学
    1934年(25歳) 4月からボン大学でカール・バルトに師事
    1935年(26歳) ブルトマン論がバルトに認められる。8月に帰国 
    1936年(27歳) 九州帝大哲学科助手。『西田哲学の根本問題』刊行
    1937年(28歳) 山口高等商業学校に赴任 翌38年教授に
    1941年(32歳) 『カール・バルト研究』刊行
    1943年(34歳) 九州帝大嘱託講師(週1回、西洋哲学)『夏目漱石』刊行
    1947年(38歳) 九州帝大哲学科哲学専任講師に
    1948年(39歳) 同大助教授
    1950年(41歳) 同大教授
    1958年(49歳) 福岡社家町教会にて洗礼を受け、クリスチャンに
    1961年(52歳) 九州大学文学部長に(63年まで)
    1964年(55歳) 『仏教とキリスト教』刊行
    1965年(56歳) 八木誠一との20年にわたる論争が始まる。ドイツに招かれ、30年ぶりにバルトに再会。 ゴルヴィッツァー、ハイデガー等と対話
    1968年(59歳) 九大構内にジェット機墜落 全共闘とかかわる
    1969年(60歳) 東大全共闘議長・山本義隆と往復書簡(「朝日ジャーナル」で4回)。『大学革命の原点を求めて』刊行
    1971年(62歳) 5月12日付で退官(定年まで1年を残し辞職)
    1972年(63歳) 法蔵館から著作集全10巻が刊行(75年完結)
    1973年(64歳) 『日本人の精神構造』刊行
    1974年(65歳) ドイツに招かれ、ハイデルベルクほかで客員教授。(7月より1年間)
    1976年(67歳) マルコ伝講座をひらく
    1977年(68歳) ドイツ・マインツ大学で客員教授(78年4月まで)
    1978年(69歳) 12月3日、末娘・比佐子逝去
    1979年(70歳) ドイツ・エッセン大学で客員教授(4~10月)。帰国後眼病発症。『続仏教とキリスト教』刊行
    1980年(71歳) 手かざし治療に通い始める(亡くなるまでほぼ毎日)
    1981年(72歳) マタイ福音書講座、日本人の精神構造講座をひらく
    1984年(75歳) 6月26日急性白血病で死去。9月ハイデルベルク大学より名誉神学博士号
    1988年      『純粋神人学序説』刊行

    ただ単純な事実によった人生の経歴の中で、滝沢がなし得た仕事とは?