• (6)生松敬三の声ー『夏目漱石』などをめぐってー

    2017.11.24

    ただ、今日でこそ情況は大いに変ってきているけれども、著者が芥川の『侏儒の言葉』を読み直して講義を試みたと言う昭和十二年とか、「漱石の『こころ』と福音書」というテーマで山口のさる教会で話をし、雑誌に載せたという昭和十六年とかの戦中、さらには戦前の時代には、およそ日本の“哲学者”が日本の文学者の作品を“哲学”の問題として真正面からとり上げて論じるなどという例は、まことに稀有なことであったのだということは知っておいた方がよいであろう。ある意味では文学者たちの生々しい煩悶と苦闘にこそ近代日本における真の哲学的思索の営みが見られるのではないかといった見解は、今日ではもうさしたる抵抗もなく受けいれられるものとなっていようが、当時の日本の哲学界一般の“アカデミック”な空気の中では、そうした問題へのとり組みはあまりに素人くさく、非専門的との評価を免れることはできなかったはずである。にもかかわらず、あえていち早く漱石や芥川の問題をとり上げ、どこまでも自己の問題に忠実に哲学者としての視角からこれを徹底的に掘り下げて究明しようとしたこと、これはいわば先駆的な例外者である著者の名誉としてまず確認しておかなければならない。『滝沢克己著作集 4』(法蔵館、1973、491頁)、解説より

     

    ・・・江藤〔淳〕の「則天去私」神話の打破の作業はまことに華々しく、「崇拝もせず、軽蔑もせず、只平凡な生活人であった漱石の肖像を描く」という意図は見事に達成されているかに思われるけれども、その中ではしかし、晩年の漱石があれほどこだわりつづけて「則天去私」をそれならどう考えたらよいのかという問いはまるで無視されてしまっているのである。・・・「則天去私」神話は破壊されても、いや神話が破壊されたればこそ、いっそう真剣に漱石における「則天去私」の問題が改めて問い直されるのでなければなるまい。このような観点から本書   著者が「漱石研究のための一つの捨石ともなり、延いてはまた、今日流行の哲学や文学の中に彷徨する若い人々にとって少しでも実証的〔実践的)な思考と創作とへの手引きともなるならば」と提出されたこの労作〔『夏目漱石』〕   を批判的に読まれるならば、読者は決して期待を裏切られることなく、貴重な数多くの教示を得られるであろう。熟読熟考を勧めたい。『滝沢克己著作集 3』(法蔵館、1974、468頁)、解説より

    生松敬三は元中央大学教授。西洋思想史、とくに30年代のそれが専門。

  • (7)飯島宗享の声-哲学としての功績・哲学への挑戦ー

    2017.11.24

    滝沢克己の哲学的な営みは…シモーヌ・ヴェーユ流にいえば「根をもつこと」をめぐっての関心に、その哲学的努力の焦点があるということである。「根底」はこれまで多くは宗教的信念としてのみ語られ、哲学および諸科学が(文学や芸術その他も同様だが)教権への隷属から脱した近代以後では、その限りで哲学にはなずみがたい事柄であった。それは形而上学的独断として却けられるのが常だったからである。滝沢は西田哲学を土台に、カール・バルトとの触れ合いを通じて、根底に迫ることになったし、その意味では彼の根底把握には宗教的、なかんずくキリスト教的なものが避けがたく絡まりあっている。しかし、キリスト教の精神的実質をその伝承のなかで死に絶えることのありえぬものとして受けとめながら、護教論的教義学や教会的世界の占有財産としてではなく、つまりキリスト教の聖域におけるスコラ学とは違って、俗なる哲学の場であくまで哲学的思惟として問いかつ答えようとするのが滝沢の場合である。宗教についての或る種の忌避ないしコンプレックスをもつ日本の哲学界および思想界において、滝沢のは哲学ではない、宗教だといって彼の所論に正面から反応しようとはしない嫌いがあるにもかかわらず、彼の意図においても私の目にとっても、成功の度合いについての評価は別としても、それはやはり哲学であり、また哲学として論ぜられ遇されることが哲学自体のためにもその生命のために必要であろう。これは別の面からいえば、滝沢克己の大きな功績にかぞえられてよい哲学への挑戦でもある。それが哲学であるからこそ、滝沢はなんの妥協もなく、一点の譲歩すらなしに、一方では仏教に他方では唯物論に出会うことができたし、それらとの相即的理解と吟味とのなかで、彼のいわゆる根底の論を深めることが同時に全体的展望と定位に通ずることであるゆえんを実証することになった。その理解と吟味の歩みの深化過程は決して完結してはおらず、現在までの足跡のなかにも将来に課題をそなえる問題点をさまざまに蔵しているけれども、それが試みの全体として有する意義は決して過小評価を許さない。…『滝沢克己著作集 10』(法蔵館、1974、531~532頁)「解説」より

     

    考証と思惟をかりに分けても、思惟そのものが正しい意味の思惟と、将棋の駒を動かすように図式を単に図式として操作するようなものもありますしね・・・・。滝沢さんがいい意味での純粋な思惟で本源的なものに迫りえたということを、…わたしはむしろ滝沢さんの思惟が生きた現実に即してなされるところに、その理由を見ていいのではないかと思うんです。歴史をただ歴史としてだけ見ていたのはそうはいかないものが、一見、非歴史的に見える手法で、歴史を宿して今ここに存在している現実をそれとして根底的に見るときに、かえって見えてくるということじゃないだろうか。…生身の人間の今ここでの現実についての直接的配慮、これが動機にあって、それと直結した思惟《Denken》だから、だからこういうことになるんじゃないかと、、そういう面を感じますね。
     そしてこれが思惟についての一般化されうる一つの原則でもあるように思いますね。『畢竟』(法蔵館、1974)、257,8頁より

     

    飯島宗享は元東洋大学教授。わが国の実存思想をリードした哲学者。

  • (8)鈴木亨の声-西田哲学と「論理」をめぐってー

    2017.11.24

    それから、滝沢哲学にもう一つ功績があるのは、西田哲学の場合は非常に対象論理、対象論理ということを言うでしょ。あれは対象論理というものと別に「無の論理」とか、述語的論理とかいうものを対応させることからくるわけですね。確かにその対立をきわだたせる必要があったことはわかるんですけど、実際は対象論理というのは、その対象の中に主体が否定的に入っているということがあるわけですね。その点、西田先生の場合は、そこを何か切り離して対象論理の外に自分の論理がそれとはまったく別のものとしてあるような言いかたをなさっており、あれは非常に誤解されやすい。それを滝沢さんははっきりさせて、まさに対象論理というものの中に主体が否定されているということを、つまり主体と無関係な対象論理ということじゃなくて本質的な論理はそうしたものを含んでいるのだということを明らかにしたということがあると思うのです。『畢竟』〔法蔵館、1974)、48,9頁より

     

    鈴木亨は元大阪経済大学学長、「存在者逆接空」の響存世界をひらいた鈴木哲学で著名。

  • (9)浜田義文、飯島宗享の声―人間主義、唯物論ー

    2017.11.24

    よくある最近の人間尊重、人間を物として扱ってはいかんというふうないい方が、普通されるでしょ。それを滝沢さんの場合は、まさに人間も一個の物であると言い切りますね。そして、そのことがかえって人間、真の意味での人間尊重を生み出すのだということが、僕には非常に滝沢さんの議論の爽やかな点で、これもやっぱり不可逆性ということから出てくるんだろうと思うのですよ。何か近代の立場というのは、人間尊重ということで、人間を一個の物よりもう一つ上のところへやろうとするものだから、逆にかえってだめになってしまう。そこの非常に大事なところをおさえることになっているのは、滝沢さんの思考のユニークな点じゃないかと思っているのです。…
      最近の唯物論でもマルクシズムでも人間の問題ということを言うときに、人間も物だというその基本のところを曖昧にしたままで、今までのああいうのではいかんから、、もう一つ別の何かをもって来て人間尊重を考えようとするいうふうな、だから、唯物論の原則はかえってゆるめられるような形になって、せっかくの唯物論の積極的なものがかえって落ちるようなことがあるように思うのです。『畢竟』(法蔵館、1974)50,51頁より、浜田義文の発言

     

    僕が非常に興味があるのは、そういうことを唯物論としての枠の中で、今までの唯物論にはこういう限界があった、しかし真のあるべき唯物論という形から考えるとそこまで降りていって客観性と触れる場所をもう一つもった場所まで考えて、しかもあくまで唯物論的に考えようとなさったこと、つまり、それが唯物論を豊かならしめる考え方だという形で滝沢さんが出してこられたことです。そしてこれがやっぱりユニークなことだと思うね。またそうなって初めて、本当の客観性に対する主体の関わりとか、そういう意味での主体の問題の生きてくる場所があるわけですね。『畢竟』98、99頁より、飯島宗享の発言

     

     

  • (10)鈴木亨の声ーマルクス主義と疎外の問題ー

    2017.11.24

    マルクス主義だって、一九三二年の『経済学・哲学手稿』が発表されるまでは、そういうことに気づいていない。それによって初めて、労働における疎外が明らかになったわけですね。そしてキルケゴール以後の実存哲学が、精神問題における疎外ということを明らかにしている。この疎外についての二つがマルクスとキルケゴールとをつなぐところにあるわけです。この点を滝沢さんの場合、ある意味ではっきりさせたし、神学上からいって大きなことだと思いますね。『畢竟』(法蔵館、1974)、127頁より、鈴木亨の発言

     

    鈴木亨は元大阪経済大学学長、「存在者逆接空」の響存世界をひらいた鈴木哲学で著名。