• (1)秋月龍珉の声-西田幾多郎・鈴木大拙と滝沢克己-

    2017.10.18

    「私が、「西田哲学的思惟」における滝沢先生の業績というのはこのことで、それは西田先生が「歴史的現実」を「場所的弁証法的一般者の自己限定」として捉えるという表現をされていたときに、それに対して次のような鋭い指摘をされたという事実だと思うのです。

     

     「かかる弁証法的実在の動きを<弁証法的一般者の自己限定>として、たんに一元的なもののごとく言い表すことは、はたして適切であるか」『西田哲学の根本問題』昭和11年刊

     

     私はかつて、これを取り上げて、西田先生晩年の「逆対応の論理」は、西田先生自身がそれにこたえられた応答と見ることができると言いました(秋月龍珉著作集第八巻『鈴木禅学と西田哲学の接点』三一書房刊)。…(この)切り込みは、とても大事な批判であったと思います。…」八木誠一・秋月龍珉『ダンマが露わになるとき』
       (青土社、1990、89~90頁)より

     

    「筆者は、滝沢克己の「不可分・不可同・不可逆」の学説を、西田幾多郎の「場所的逆対応」ないし鈴木大拙の「般若即非の論理」の延長線上に捉える。いわば、「不可分・不可同・不可逆」という言挙げは、「場所的逆対応」の論理の断面図にすぎないとする。その意味で、「場所的逆対応」の論理の中に本来含まれていたものを思想的により明確に引き出したものにすぎないが、それをそれとして明晰判明に立言したことは、何としても滝沢の無比の功績である。ある意味では、西田・鈴木もなお未在であったところの真理を道破したものと言ってもよい。」 秋月龍珉『絶対無と場所』(青土社、1996、292頁)より

     

     なお、「存在者逆接空」の哲学者・鈴木亨も西田と滝沢に関してほぼ同様の指摘をしている。『滝沢克己著作集 5』 (法蔵館、1973)の「解説」3~5、7頁参照のこと。

     また、『畢竟』(法蔵館、1974)にも、西田哲学に対する滝沢の功績について鈴木の発言がある(45頁以下)。秋月の指摘を越える点については本ページ(8)参照。