• (12)星野元豊の声―仏教を問う、両教対立を超える道ー

    2017.11.24

    仏教では、何ぼはたらいても、まあ精々草を刈る程度ですね。ご指摘のように今までの仏教では「動」といっても、それが歴史を作ってゆくということになっていない。これは仏教の反省すべき点でしょう。私から言わせれば、仏教者は今までのこころの高あがりをやめて本当に謙虚になるべきだと思います。今まで歴史だ、社会だ、社会実践だといっていても、仏教者のそれはそれこそ前近代的、非科学的ですが、それをちっとも気がつかない。もっと謙虚に歴史・社会をみることから学ぶべきだと思いますが、しかし根本的に仏教のどこからどう反省すべきかということが問題ですがね。この点で、滝沢さんの第一義・第二義の接触点の問題提起は意味があると思うのです。滝沢さんの言葉で言えば「神において神でない人間存在が決定され、基礎づけられている」とか、「個は神ご自身の表現点である」とかいうこの点    こんないい方はいかにもキリスト教的、有神論的にひびきますが、そんな言葉にとらわれないで、事柄の本質をとらえて  を仏教の上で徹底的にはっきりさすことだと思います。私はそれが仏教にあると思うし、できると思う。それをはっきりさしてこないことには、歴史だ社会だといっても、歴史を創造するどころか次の時代に生きることさえおぼつかない。『畢竟』(法蔵館、1974)231,2頁より

     

    それは仏教でもそうでしょうね。久松真一先生がキリスト教を有神論といって、それと対立的に仏教を立てておられるようなものを、僕はそこで越えられるのだと思いますね。その越えられる道をこの『仏教とキリスト教』で滝沢さんが指しておられる所は、大きな問題提起として高く評価されるべきで、みんなが受けて立つべきだと思いますね。『畢竟』(法蔵館、1974)247頁より

     

    星野元豊は元龍谷大学学長、親鸞研究者、宗教哲学