• (13)中村悦也の声―キリスト教伝道の道ー

    2017.11.24

    本来、信仰をもつということは、人間が人と人として素朴に触れ合い、お互いに活々と生きるということ、そして生きることが喜びであるという事実を作ることでしょうし、僕はイエスによって如実に出てくるはずのものはそれだと思うのですが、それが何か変な狂信におちいってしまう。そのために宗教というものが非常に陰湿なものになってしまう。素朴なキリスト論の非常に大切な問題と、学問的な問題の根源とがはっきりしていないと、キリスト教会は非常に歪んでくるし、それが教会の現状なんです。教会の中でも本当に対話といえるものが出てこない。教区総会なんかでも、そこの所がはっきりしていないがために、非常につまらない争いがいっぱい出てきている。僕はそういう気持ちがあります。結局は滝沢先生のおっしゃるようなキリスト論の立場でないと救いはない、と僕が思うようになった。滝沢先生との出会いの土台は、そういう僕の素朴な経験なんですね。滝沢先生のキリスト論に接して初めて牧師が、人間として語られるような気持になってきた。ここで初めてキリスト者は、他者を物量化し改宗させる厭味のある伝道から解放され、神の福音のこだまをお互いに確認し、喜びあう他者との関係に入ることができるのだと思います。『畢竟』(法蔵館、1974)243頁より

     

    中村悦也は京都洛東教会の現役牧師。ユニークな教会運動をしている。