• (7)飯島宗享の声-哲学としての功績・哲学への挑戦ー

    2017.11.24

    滝沢克己の哲学的な営みは…シモーヌ・ヴェーユ流にいえば「根をもつこと」をめぐっての関心に、その哲学的努力の焦点があるということである。「根底」はこれまで多くは宗教的信念としてのみ語られ、哲学および諸科学が(文学や芸術その他も同様だが)教権への隷属から脱した近代以後では、その限りで哲学にはなずみがたい事柄であった。それは形而上学的独断として却けられるのが常だったからである。滝沢は西田哲学を土台に、カール・バルトとの触れ合いを通じて、根底に迫ることになったし、その意味では彼の根底把握には宗教的、なかんずくキリスト教的なものが避けがたく絡まりあっている。しかし、キリスト教の精神的実質をその伝承のなかで死に絶えることのありえぬものとして受けとめながら、護教論的教義学や教会的世界の占有財産としてではなく、つまりキリスト教の聖域におけるスコラ学とは違って、俗なる哲学の場であくまで哲学的思惟として問いかつ答えようとするのが滝沢の場合である。宗教についての或る種の忌避ないしコンプレックスをもつ日本の哲学界および思想界において、滝沢のは哲学ではない、宗教だといって彼の所論に正面から反応しようとはしない嫌いがあるにもかかわらず、彼の意図においても私の目にとっても、成功の度合いについての評価は別としても、それはやはり哲学であり、また哲学として論ぜられ遇されることが哲学自体のためにもその生命のために必要であろう。これは別の面からいえば、滝沢克己の大きな功績にかぞえられてよい哲学への挑戦でもある。それが哲学であるからこそ、滝沢はなんの妥協もなく、一点の譲歩すらなしに、一方では仏教に他方では唯物論に出会うことができたし、それらとの相即的理解と吟味とのなかで、彼のいわゆる根底の論を深めることが同時に全体的展望と定位に通ずることであるゆえんを実証することになった。その理解と吟味の歩みの深化過程は決して完結してはおらず、現在までの足跡のなかにも将来に課題をそなえる問題点をさまざまに蔵しているけれども、それが試みの全体として有する意義は決して過小評価を許さない。…『滝沢克己著作集 10』(法蔵館、1974、531~532頁)「解説」より

     

    考証と思惟をかりに分けても、思惟そのものが正しい意味の思惟と、将棋の駒を動かすように図式を単に図式として操作するようなものもありますしね・・・・。滝沢さんがいい意味での純粋な思惟で本源的なものに迫りえたということを、…わたしはむしろ滝沢さんの思惟が生きた現実に即してなされるところに、その理由を見ていいのではないかと思うんです。歴史をただ歴史としてだけ見ていたのはそうはいかないものが、一見、非歴史的に見える手法で、歴史を宿して今ここに存在している現実をそれとして根底的に見るときに、かえって見えてくるということじゃないだろうか。…生身の人間の今ここでの現実についての直接的配慮、これが動機にあって、それと直結した思惟《Denken》だから、だからこういうことになるんじゃないかと、、そういう面を感じますね。
     そしてこれが思惟についての一般化されうる一つの原則でもあるように思いますね。『畢竟』(法蔵館、1974)、257,8頁より

     

    飯島宗享は元東洋大学教授。わが国の実存思想をリードした哲学者。