• シナジー あふれる酒杯ー滝沢克己・癒しのことばー

    2017.10.18

    僕が僕であるために
    勝ち続けなければならない(尾崎豊)

    尾崎

     

    尾崎、そんなこと全然ないんだよ。

    A

     

    「人間の無力と実力」

     こうして、いま・・・どうしようもない不安と絶望、…ぬけみちのない無力感がひろがりつつある。しかし、このような袋路は、私たち現代に住む人間にとって絶対的に避けることのできない「運命」ででもあるのだろうか。あきらめて死に急ぐか、そのほかに、人としてほんとうに自由に、美しく力強く生きようと意志する私たちにとって、…しっかりと立ちうる拠点は、もはやどこにもないのであろうか。ありがたいことに、事実はけっしてそうではない。絶対に確かな拠点は、いまもなお厳として、私たち各自の足もとにある。

     ただそれは、私たちの思想や学問によるのではないのはもとより、死を賭した闘いによって「かちとられた」砦(とりで)でさえもない。いやその拠点は、人間の主体的なはたらき、いかなる威力にもよることなしに、ただ単純に、それ自体で実在する。

     

    いったいこいつはなにを言ってるんだ。勝ち続けなければ自分は崩壊してしまうぜ。なんの権威があってこんなことを言うんだ?

    尾崎

     

     なんらかの功績をまつことなしに、無条件に恵まれてくるこの堅い足場なしに、人生が人生としてそれだけで成り立つとか、人間が人間的主体的にはたらくなどということは、空中に家を建てるというのにもまさって、実際にはぜんぜん起こりようがない事なのだ。

     人が人として充実した生を始めるため、喜んで生きるために絶対になくてはならなぬ「アルキメディスの一点」は、そもそもの初めから終わりまで、つねにあたらしく私たち各自に密着して、私たちが一刻も早く、この驚くべき事実に着目するのを待っている。

     この恩恵は、私たち各自・すべての人にとって、ただ単純に感謝してこれを受けるほかはない。人生そのもののこの原点において、人間の主体性は――言葉であれ、武器であれ、人間の所有しうる一切の威力は――単純にかつ完全に消滅している。その一点において、だれかれの別なく人間はぜんぜん無力である。…

    だからさ、いつだって勝ち続けなければオレは無になっちまう、そいつがこわい、こわいんじゃねえか

    尾崎

     

    怖いのです。何にもなれない自分が、情けなくて
    申し訳なくて五体満足の身体を持て余していて、どうしようもない存在だということに気付いて・・・(南条あや)

    南条

     

     私たちは、私たち各自の・人というあらゆる人の・この点における「無力」を呪うべきであろうか。いな、全然逆である。

     

    なんだって!

    尾崎

     

     

     全人生の真実の基礎――すべての人がただそこでだけ本当に落ちつきうる幸いの故郷――は、絶対に人から失われること・奪われることのできないように、そもそものはじめからおわりまで、日々にあたらしく、否応なしに、私たち各自に恵まれてくる。

     私たちにできること、なすべきことはただ一つ、その恵まれた基盤のうえにまっすぐに立ち、しっかりと振舞うために、たがいに励ましたすけあうこと、思いを尽くし、力を尽くして、その共通の故郷の言(ことば)をすこしでもヨリ正確に語るべくつとめることのほかににはない。

     そうして私たち各自の生そのものと互いに織りなす人の世が、ほんとうに生き生きとした楽しいものとなるためには、元来ただそれだけで、十分すぎるほど十分なのだ。

     人間の主体性、つまりこの私自身が絶対に無力であるまさにその処に、真に人間的な一切の実力の・世のもろもろの力はおろか死もまたこれを奪いえぬ・唯一の源泉があるのである。

     

    滝沢克己『人間の「原点」とは何か』(三一書房、1970)「Ⅷ」237~9頁より
                 尾崎豊「僕が僕であるために」より
                 南条あや『卒業式まで死にません』(新潮文庫)297頁より