• 叡智の言葉

    2017.10.2

    滝沢克己名言集 2004年10月 No.1
     

     

    人はどこまで正しくかつ高くなっても、ひっきょうただの人であって神ではない、まさにこの共通の大いなる限界に、私たち各自の、人としての真の自由と連帯の絶対に確かな基礎があり、永遠に尽きず、日々新たなる活動の源泉があるということになります。

    ―「若き攻撃的研究者へ 山本義隆氏に送る」
    (『大学革命の原点を求めて』新教出版社396頁)※引用は編集してあります

     
     
    滝沢克己名言集 2004年11月 No.2

     

     

    「私」というこの生命の本当に確かな基礎、決して失われることのない目的ないし意味というようなものは、果して実際に在るのか無いのかこの一つの問いは、まだ幼かった或る日不意に私を捕えて、それ以来久しいあいだ激痛、鈍痛、ありとある形で私を苦しめてきた問いですけれども、今ではそれが、決して私だけのことではなくて、例外なくすべての人に、絶対にのっぴきならないようにかかわっている問いであること、たとえその当人がどんなに頑固に、自分には「関係ない」と言い張っても、いな、まだ片言さえ言えぬ幼児でさえも、実際はすでにこの問いにかかわられている、のみならず刻一刻、みずからこの問いに対する一つの特定の答えと成っている、ということが、次第にはっきりわかってきたからです「先になるべき後なる者へ」より
    (『大学革命の原点を求めて』新教出版社、418頁)
    ※引用は編集してあります

     
     
    滝沢克己名言集 2004年12月 No.3

     

     

    この人生にはほんとうに信頼するに足る支えがないと人はいう。それはないのではない。見えないのだ。全くの無償で与えられてくるもの。そのようなものとしてのみ自己に帰属するものを、ただ単に自分のもの、人という主体の所有でなくてはならないかのごとく錯覚しているかぎり、そのような「主体」とか「自分」とかいうものが実際にあるかのようにうぬぼれているかぎり、人は必然かつ当然に、足もとの空虚に怯(おび)えなくてはならない。そこからまた必然的に、自己のはたらきとその成果への度の過ぎた愛着、したがってまた他のすべての人への過酷な要求、仲間の狎(な)れあいと、敵に対する憐れみの喪失、人間世界の果てしない分裂と争闘が結果してくるという、ただそれだけのことなのである。なぜ学ぶのか」、『わが思索と闘争』
    (三一書房1975)15~16頁より
    ※引用は編集してあります