• 中学生にもわかる滝沢克己(その2)

    2017.11.25

    滝沢克己協会提供(前田保)

     

    「即」っていう字は前から出てきたけど、そこに「ことわり」があるの?


    そうなんだ。それを「不可分・不可同・不可逆」と圧縮したんだ。すこし説明がいるね。


    いきなり圧縮されちゃ、わけがわからないよ。


    そもそも「即」は「般若即非」(鈴木大拙)の即なんだ。仏さまの知恵(般若)だね。


    ふーん。由緒あることばなんだね。


    そうだね。「即非」というのは「AはAでない(非)、すなわち(即)Aである」(西田幾多郎・秋月龍民)という論理なんだ。


    それが仏さまの知恵なんて、信じられない。「山は山じゃない、すなわち山だ」なんてこといったら、アホか、と言われちゃうよ


    それはつらいね。しかし、それは僕たちの日常の論理が「AはAである」(同一律)や「Aは非Aでない」(矛盾律)から出来ているからなんだ。仏さまから見たらこのほうがアホなんだ。もっとも仏さまはアホなんていわない、衆生(ふつうの一般人)の迷いというだろうけどね。


    つまりさかさまの世界?


    二つを並べればそういえるけど、仏さまからみると日常の論理の世界は存在しないんだ。まぼろしなんだね。まぼろしに翻弄されているのが衆生の姿で、仏さまはそういう衆生を愛されて真実を説かれたというわけだ。目を覚ませ、とね。


    うーん、ボクの世界はまぼろしなの? 迷いの世界か。


    まあ、仏さまの知恵から見るとそうなるんだね。というのも、僕たちの世界の論理は「ものがそれだけでポツンと在る」という見方からくるんだ。そういうふうにものがあって、そのあとでいろいろな関係が起こり、形が出来てくるという見方からね。こういう見方を実体主義というんだけど、僕たちの論理はそういう存在感覚にはまっているし、また、これを支えているんだよ。


    じゃ、仏さまの知恵の世界はどういうの。


    それが二重性なんだ。人間は主体的主体と二重だったね。仏さま、神さまとね。これは人間がそれだけでポツンと在るんじゃない、居るんじゃないということだったね。仏教でいえば諸法無我、縁起ということにつながって、実体主義から脱した仏の知恵になるけど、いまは措こう。
      即非の論理をこの人間に当てはめると「人間は人間にあらず、すなわち人間なり」となる。「人間にあらず」という否定は「仏」や「神」、「他人」や「物」など、「人間以外のもの」で置き換えられる。「人間にあらず」のところに「人間以外のもの」を代入しても同じ事だからね。当面は仏や神といった主体的主体、絶対主体を考えよう。他人や物との関係は後で触れようね。つまり、「人間は神仏なり、すなわち人間なり」といえる。


    人間は「客体的主体」で、「客体的主体」は「主体的主体」と「即」の関係にあるというんだね。その即が「不可分・不可同・不可逆」だっていうわけ?


    そのとおりだよ。主体的主体とか客体的主体ということばは長すぎるから、簡単にそれぞれ神仏、人間という言葉を使おう。滝沢さんの理論の核心は宗教の核心をも捕らえるものだから、宗教の言葉でも同じ事が表現できるんだね。


    それはわかったつもりだよ。滝沢さんは宗教の宣伝をしている訳じゃないというんだろ。


    そいつはうれしいね。ところで、即の論理では、「神仏は神仏にあらず(=人間なり)、すなわち神仏なり」「人間は人間にあらず(=神仏なり)、すなわち人間なり」ということになる。二重性だからどちらからも言えるわけだね。
    ここで「あらず」と言うのが「不可同」ということになる。神仏は人間と違う、同じに出来ないし、しちゃいけないよ、ということだね。
    でも、そういうふうに「違うもの」が「すなわち」で結びついている。神仏は人間と切り離せないということだね。これを「不可分」というわけだよ。そして、この関係は人間にとっては一方的な関係なんだ。神仏がそれを決めたというほかないと前にいったね。とにかく、人間がそうなろうとしてなったのではない。もしそうなら、人間が自由に「解約」したり、「再契約」したりできるはずだからね。
    「人間やめます」なんていったって、そう言っているのは人間だからね。人間やめるのも人間を前提にしなくちゃできない、僕たちはこの外に出られない。また出る必要はないし、それで充分なんだ。どんなに苦しくても屈託のない子供みたいにうれしく楽しく生きられるんだよ。だって神仏と一緒(不可分・不可同)だからね。
    それで、この能動・受動の関係、先後の順序を逆転すべきでないというんだ。「べき」というのは「しちゃいけない」し「できない」から「しないのが適当で当然」というあらゆる意味でだね。これを「不可逆」といっている。
    こういうことがみんな「即」のところにあるから、いっぺんに「不可分・不可同・不可逆」というんだ。


    ふーん、「即」はひといきに「不可分・不可同・不可逆」という「ことわり」なんだね。なるほどうまくできてるね。なかなか納得はむずかしいけど、由緒あることばを解析して人間を常識とは違うふうに考えようとしているということは判ったような気がする。


    そうかい。すこしでも判ってくれればうれしいね。それじゃ、最後に、君の言う「納得」ということ、「由緒」ということについて考えてみよう。それと、「絶対の非連続の連続」のあとにあった「即相対的並びに周辺的非連続の連続」のことを考えよう。それでひとまず終わりにしようと思う。


    そういえば、E=mc2乗にあたるのは「絶対の非連続の連続即相対的並びに周辺的非連続の連続」だといってたね。


    覚えていてくれてうれしいよ。僕たちはそこから出発したんだよね。その出発点から最初の「絶対の非連続の連続」を取り出してみたんだね。でも、その後に「即」があるから、実はそれだけ取り出すのはあくまで便宜的なことだったんだ。いっぺんにすべてを理解することはむずかしいからね。一番大事なところを最初に考えてみただけだったんだ。


    そう、「絶対の非連続の連続」というところだけでも、なかなか納得できない「ことわり」なんかがあったしね。少しずつ理解していくというのは仕方ないと思うよ。


    わかってくれるかな。「絶対の非連続の連続」とは、「客体的主体」ということ、もっとくわしくは「主体的主体即客体的主体の二重の二重性(即は不可分・不可同・不可逆の即)」だったね。


    そうだった。思い出したよ。


    うん。でもじつは、「絶対の非連続の連続」はすなわち(「即」!)「相対的並びに周辺的非連続の連続」なんだ。


    むむ。まだ終わらなかったっていうわけ? また「即」が出てくるんだね。これも不可分・不可同・不可逆の即なの。


    そうだね。「相対的非連続の連続」っていうのはボクと君、ボクと物といった対人関係、対物関係のことなんだ。人と物をいっしょにして「もの」と書けば、「対もの関係」だね。


    それはわかりやすいよ。僕のまわりには見たり聞いたりする形で「もの」がある・居るからね。


    「絶対の非連続の連続即相対的並びに周辺的非連続の連続」というのは、「主体的主体即客体的主体」というところには、すでに「対もの関係」が入っているって事をあらわしているんだ。人間は仏さま、神さまと二重の関わりの中にあると言ったし、そのときそこでいう人間というのはこのボクだといったけど、同時に、君であり、物であったというわけだよ。最初の二重のかかわりの中にもう「対もの関係」が入っていたということだね。


    僕たちが関係としてあるということは、仏さま、神さまとの関係にあるというだけではなく、すなわち「もの」との関係にもあるということだ、と言いたいんだね。


    お見事。そのとき、その「対もの関係」もボクが決めた訳じゃない。それは認めるほかない事実、受け入れる他ない事実だということだよ。僕たちみんなひとりひとりそれで充分によく生きられるようになっている。それは本当に不思議なことだよ。仏さま、神さま(主体的主体)が決めたことだと言わざるをえない、他にいいようのないことだとね。
    そういったって、それでぼくの尊厳が奪われたり、自由が奪われたりするどころか、むしろ、そこにこそボクの尊厳や自由があるし、出てくる。「努力すればそれだけのことはある」と本当に言えるのはそこでだけだよ。
    だからこそ「対もの関係」をほんとうに大切にしなければならない。仏さま、神さまに繋がっているからね。そこで自分の尊厳や自由が感じられないということは、その人が自分のところにきている自分のための本当の「招き」を見失っている、本当の自分を見失っているということなんだ。どんな小さいひとりにでもそういうことがあれば、それは全世界の問題なんだ。「対もの関係」をそういうふうにほんとうに大切に考えることは実体主義的な人間観、世界観からは出てこないんだ。それが現代の根本問題なんだよ。


    そんな、あんまりいっぺんに言われてもついていけないよ。熱気は伝わってくるけどね。


    そうか、そうか。ちょっと走りすぎだね。はやく終わりたいんだけどなかなかむずかしい。まだ中途半端だけどここでまた一休みしよう