• 中学生にもわかる滝沢克己(その4)

    2017.11.25

    滝沢克己協会提供(前田保)

     

    「理論」「納得」「由緒」、どこから行く?


    そうだね、「由緒」っていうところから入ろうか。滝沢の理論に「即」の字が出てきて、それが鈴木大拙や西田幾多郎、また、秋月龍民(民の字は正しくは王偏がつきます…筆者注)などが使った由緒ある言葉だということだったね。この点は大事なことなんだ。
    哲学は先人の考えを踏まえることをその精神の一つとしているんだ。ギリシャ以来そうだね。滝沢の理論はそういう哲学の精神の産物でもあるんだよ。個人的な体験の表白とは一線を画するんだよ。
    もちろん先人の考えに何を加えたかが大事なことだ。その点では「不可逆」というのが滝沢の業績ということになるだろうね。「ノーベル賞」の核心もここにあると思うよ。


    「不可分・不可同」までは大拙・西田にあったというわけ。


    そうなんだよ。でも「不可逆」ははっきりしなかった。滝沢が取り出したんだね。これで、宗教を含む人間現象の正常形態と疎外形態がどこからどう分かれてくるか、どこに疎外克服の拠点があるのかが明瞭になった。
    現生人類16万年の迷妄がそれとして明るみに出されたんだ。興奮しないではいられない。経済社会の問題や精神病理の理論にも使えると思うよ。
    といっても理論なんて悲しいもので、世の中なにも変わらない。それはE=mc2乗と同じだよ。悪用しようと思えばされちゃうのも同じだね。それは人間の問題、責任の問題だよ。とにかく、理解してくれる人がほとんどいない状態では、由緒ある理論だから検討してくれと叫ぶしかない。で、「理論」と「納得」の話に移ろう。


    不可逆は今それ以上突っ込まないでおくわけだね。まあ、機会があったら触れてもらうことにしようかな。


    そうしようね。ところで、僕は「理論」と言ってきた。しいて言えば「哲学の理論」だね。でも、君はなかなか「納得」できない。それは西洋精神史に関わる問題を孕んでいるんだ。
    簡単に図式化するよ。西洋では中世の末期に普遍論争というのがあった。普遍が実在するか否かをめぐって、実念論と唯名論が争った。といってもカトリック教会内部の論争だね。神を否定する議論ではない。唯名論は神を個物とのかかわりで捉えようとした。この流れがルターの「ただ信仰によってのみ」という宗教改革に至るんだ。個人が前面に出て近代という時代が開かれる。
    この方向に、一方ではカルヴァンの説から資本主義の精神が生まれ、魂なき専門人が社会に溢れる、他方では宗教が個人の内面のことになっていく。つまり、神と個人の関係が逆転してしまうんだ。
    理神論や啓蒙の無神論などが出てくるし、カントは、まだ神の存在証明を本気でやっていたデカルトたちの試みを粉砕して、「単なる理性の限界内」の宗教しか語らなくなる。
    ドイツ観念論やロマンティークの動きは出たけど、19世紀になれば合理主義の謳歌となったんだね。かろうじて実存(「この私」の問題)に神が真剣に考えられる場が残されたぐらいだね。
    なにがいいたいかと言うと、近代の哲学は神を前提にしないことを共通の了解としてきたということだよ。中世の思考の根本問題であった啓示神学と自然神学の問題は亡失され、完全に忘れられてしまった。啓示を問題とする場がなくなったんだね。しかし、啓示と呼ばれたような現象が亡くなったわけではない。
    西田哲学は近代の哲学を自覚しながら、啓示と神の存在の問題を哲学の根本に据えたんだ。精神史的に大雑把に言えば、実念論の哲学を試みた。そうすると西田の立場はどうしても神秘的な宗教経験を披瀝したものとしか捉えられない。現に田辺元の批判がでる。
    西田の学統にたつ滝沢の理論も、唯名論の果てに人神を立てた近代的思考と百八十度異なるものとならざるをえない。なかなか納得されないんだね。
    というのも、こういう理論がほんとうに「納得」されるには主体的主体そのものがその可能性を開かなければならないからだよ。そういうと宗教体験のない者は排除されるし、そんな前提で哲学は成り立たないということになるが、それこそが近代的な視野の限界なんだね。
    ひとつには宗教体験の有無に関わらず、神は実在するすべての人の根底にあって一人一人に関わっている。これが原事実だということだね。体験にこだわる批判にはそのことが抜け落ちてしまう。
    同時にそういう批判は、宗教体験があれば人間が神仏のような存在になると考えてしまう。まったく逆に、宗教体験が人間の在り方(罪悪深重)の徹底的解明でもあり、したがって、宗教体験など何も保証しないという認識の獲得だという可能性にはまったく思い及ばない。実は、不可逆の理論はこの点にも関わるんだ。
    いきなり結論言っちゃうけど、「体験」にしても「理論」にしてもなんぼのもの、ということだね。それが宗教体験であっても、ノーベル賞級の理論であってもね。それが最後の大事じゃない、ということ。
    最後の大事は主体的主体があって客体的主体と即であり、そのことが即、僕たちの平常底=生活世界だってことだよ。今、ここで生きているっていること以上に大事なことはない。そこに問題があったらそれは神さま仏さまが苦しんでいるということだ。だから全力でかからなければならない。逆じゃない。不可逆だ、っていうわけ。
    というわけで、不可逆はその主張自身にも適用される。滝沢がなによりも「原事実」を強調していたほんとうの意図だよ。


    むむ、むずかしい。けど、滝沢の理論が歴史的な背景を背負っていること、そこで僕たちの常識との激しい戦いが繰り広げられているらしいってことは判ってきた。まだまだ「納得」は出来ないけど、常識を疑ってみる余地がありそうなことだけは判ってきた。


    そうかい。僕もとにかく言いたいことを言ってみた。お互いもっと深く考えるきっかけになればいいね。これでいったん話を終えることにしよう。


    長いことありがとうございました。


    こちらこそ。

     

    「由緒」ですが、大拙・西田だけではなく、バルト神学、および、デカルトからマルクスまで近代哲学も滝沢の理論の源になっています。今回はその点は背景に沈んでいますが、無視できません。

    「宗教体験」や「理論」について、それがなんぼのものか、と書きましたが、そういいうる、また言わなければいけない局面があるということで、体験や理論一般を貶めるつもりはありません。

    ただ、その局面というのがとても大事だといいたいわけです。体験さえあれば、理論さえあれば、という立場(体験主義、理論主義)に対して、それがなんぼのもの、と言いたいわけです。

    その点、ポジティブに言えば、滝沢の理論、とくに「不可逆」は自己言及的である、ということです。それも自己否定的な自己言及です。

    それをひらたく言えば、滝沢の理論が教えているのは、この世に何も頼りになるものはないということ、そういう言及自身を含めてそうだ、ということになるでしょう。

    それで充分であり、それでいいということ。何かにしがみつかなくても、したがって滝沢の理論とかにしがみつかなくても、人間は生きていける、現にそうなっているからそう生きてみなさい、ということになるのではないかと思います。

    「現にそうなっている」ってところを自分で掘ることが第一で、あとは第二、第三のことだ、と。