• 【一番勝負】西田幾多郎批判

    2017.11.24

    永遠の生は永遠の死に比すべくもなく強い

     ここに於いて私は一つの重大な疑問を禁ずることが出来ない。創造主と被造物との間の侵すべからざる秩序を表す絶対の非連続の連続は、果たして「絶対の生即死」という言葉を以て適切に言い表されることが出来るであろうか。・・・

     ・・・ここに於いて私は前の疑問と連関して、もう一つの重大な疑問に逢着せざるを得ない。即ちかくの如き意味に於いて弁証法的なる実在の動きを、「弁証法的一般者の自己限定」として単に一元的なるものの如く言い表わすことは、果して適切であるか否かということである。かくてはなお、禁断の樹の実を食うことによってひらかれた眼による物の見方が、いまだそこに残っているという重大な誤解を避け難いのではあるまいか。

     もし「弁証法的一般者」、即ち絶対の非連続の連続の媒介者が創造して創造せざる絶対の主体として神を意味するとするならば、そこから物が生まれ、物を身体としてもつ人間が生まれ、その消極的条件として単なる虚無が置かれるということは出て来るであろう。しかしただそれだけからは、その人間がいつも神を逃れて樹陰にかくれなければならない人間であり、その虚無が彼を空しき焦燥と矜持に追いやるところの絶対の死であるということはどうしても出て来ない。両者の間には如何にしてもアダムの転落ということがなければならぬ。罪は何処までも我々自身の責任なのである。

     現実の私は創られたるものでありながら罪を荷う私として、生まれながらにして永遠の生命と永遠の死との間にある。それ故に私から見れば、絶対の生なる神と絶対の死なる虚無とは、各々常に測るべからざる力を以て私の歩みを限定する。否、私が神の光によって己の罪を認めざる限り、絶対の死は私に対して結局に於いていつも決定的な力をもつ。更に私が私を創る永遠の生命に眼をみひらく時、私はまた同時に必ず私を取囲む永遠の死の淵に眼覚めなければならない。かくしてそれはいつも絶対の死の面即生の面と考えられるであろう。

     しかしそれは何処までも単に一なるものとして私を私の背後より限定し、私がそれに於いて生れ、それに於いて死するものと考えられてはならない。絶対の死の面と生の面とが単に同等と考えられてはならない。絶対の死の淵はただ、人間が神の背く時、自ら招くところの神の刑罰として存在するのである。人とあらゆる物との主は、またぜったいの死の主たるものである。人にとって避くべからざる絶対の力たる死も神にとっては単なる虚無に均しいのである。

     神は十字架に釘づけられ、地獄に降りたる人の子を蘇らしめ、天に挙ぐるところの神である(使徒信経)。死は何処までも死であり生は何処までも生である。しかし永遠の生は永遠の死に比すべくもなく強いのである。死の淵にありてなお、その恵みによって神の知に導かれたものの強さは、いつも神そのもののかかる力の反映にすぎない。

     それ故に私は、私は、この事態を絶対の死の面即生の面として、単に弁証法的一般者の自己限定の契機と考えることは許されないと思うのである。もしこれを強いて絶対の否定面即肯定面として弁証法的一般者の単なる契機と考えるならば、西田哲学のいわゆる弁証法も結局に於いて一つの誤魔化しにすぎないかの如き誤解を免れないであろう。「西田哲学の根本問題」(1936)
    『著作集 1』(法蔵館)35、37、39頁より