• 【七番勝負】J-P.サルトル批判

    2017.11.24

    存在の根本規定を明かさず人間を中心として一切を見る

     それにもかかわらず、目下のわたくしの考えでは、サルトルの哲学は、かれ自身もその哲学的主著である『存在と無』の副題に『現象学的存在論の試み」と書いたように、これまでのところ、なお人間という、事実存在するものの現象形態の一つを、ただそれとして考察したものであって、事実存在するものそのものの根本規定を、直接かつ端的に明かにしたものではありません。

     人間の自己を孤立的に実体視あるいは主体視するかわりに、事実存在する人間の本質を、明瞭にかつ的確に把握したといってもそれはまだ、いわば端的に存在する全自然のなかから人間の誕生とともに現れてくる世界だけを切り取って、その本質規定を取り扱っているのです。

     むろん、人間は一挙にすべてをなしえないのですから、その切り取り方がサルトルの場合のようにちゃんと存在それ自身のすじ道にかなって少しの無理もないかぎり、そのこと自身はわたくしどもとしてこれを咎めるよりも、むしろ大いに感謝しなくてはならないことでありましょう。ただ問題はかれの叙述のなかに、いま一々その例をあげる余裕はありませんが、しばしば、人間を中心として他の一切を見ようとする傾き、人間の誕生とともに現れてきた、そして現に現れつつある人間的世界のほかに世界というものは全然ありえないかのような口吻が見出されるということです。

     一九四五年のかれの講演 ”L’Existentialisme” の最初に、「ペーパーナイフその他のものにおいてはその存在に本質が  ここで本質というのはただ人間の考え、あるいは計画にすぎませんが  先立つ、しかし、少なくとも一つ、それにおいてはその本質に存在が先立つものがある、人間がそれである」といっているように、かれにとっては、人間以外の他のもろもろの物は、それ自身における存在の理由をまるで有たないかのごとくであります。

     少なくともかれは、人間となる以前のただの存在、かれのいわゆるそれ自身における存在(”l’etre-en-soi”)の規定についてかれがただ、孤立的にあるにすぎないとか、ただ在るということだけだとか、何ら自由を含まない鈍重なものだとかいうだけで、少しも積極的に明らかな言葉を語ろうといたしません。

     そうしてただひたすら、フッサールその他、かれ以外のほとんどすべての現代哲学は、人間の単に物的な把握(”prise chosiste”)、人間を単なる物(”l’etre-en-soi”)に貶して見る見方を脱しないといって批難するばかりなのです。

     その場合かれが、単に抽象的な、すなわち真に主体的・客観的でない、近代主義的人間観のもっとも繊細な形態(たとえばベルグソンのそれ)までも容赦なく摘発したことは敬服に値するとしても、「人間を単なる物に貶して見る」というかれの言い方は、知らず識らずのうちに、かれ自身、「単なる物」(”l’etre-en-soi”)について、それらの人々と「人間的な、あまりに人間的な」偏見をともにしていることを暴露してはいないでしょうか。

     そのようにいうことをはばからないかぎり、たとい近代主義者たちのように、単に空想的な自己のうちからではなくたしかに事実存在する人間のうちからであるとしても、かれもまたやはり人間のうちから、人間中心的に、この世界を眺めているといわなくてはなりません。

     一歩一歩に断絶を認めることのないベルグソンの「純粋持続」の哲学を、なお真に主体的必然的な人間の動きを理解しないものとして厳しく批評したかれ自身、その心の最も深い奥底には、物質を単なる弛緩と考えたベルグソン的な世界の見方を、人間がただの物に転落することへの不断の恐れを、したがってまたいわゆる創造的決断へのどこか病的な焦りを、残しているといわれても、弁明の余地はないのではないかと思われます。「二つのヒューマニズムと今日の日本」(1957)
    『著作集 6』(法蔵館)151~3頁