• 【三番勝負】マックス・ウェーバー批判

    2017.11.24

    「如何にあるか」が「如何に生きるか」を指し示す

     ・・・彼のいわゆる「価値判断からの学問の自由 Wertfreiheit der Wissenschaft 」の理説が、彼の実践的情熱の欠乏ではなくして、むしろ一応は、徹底的に現実に即しようとする彼の科学的精神の現れであり、その禁止的警戒が、ただ、一方現代の暗さと複雑さに堪えかねて、性急に「如何に生くべきか」の究極的解決を求める多くの人々の弱さと、他方、かかる大衆の弱さにつけ入って自己の世界観乃至実践的立場を究極絶対のものとして強要する偽予言者どもの僭越にかかわるものであることを明らかにすることが出来たと思う。無論「時代の宿命」に関するウェーバーの論述が、様々な価値の分化抗争という新カント派的哲学に傾き、暗澹たる現代の物質的基礎の問題に触れることの余りに少ないということは、指摘せられなければならないだろう。・・・

     我々が現実に於いて「如何にあるか」の科学的究明を離れて、「如何に生くべきか」、「人生とは一体何であるか」の究極的解決を憧れ求めるということは、ウェーバーのいう如く、確かに我々の弱さである。・・・しかしそれにもかかわらず私は、最後に、一つの重大な疑問を禁ずることが出来ない。はたして我々は、ウェーバーのいうように、かの危険なる憧れを自ら棄てようとして徹底的に棄てることが出来るであろうか。我々が「時代の宿命」に堪えるということによってそれは根絶せられることが出来るであろうか。

       私は否と答えざるを得ない。何故なら、我々はもと、かかる憧れを自らもとうとしてもったのではない。我々が「時代の宿命」をまともに見詰めて、「人は究極に於いて何のために生きるのであるか」という問題の前に踏みとどまるという時、そこにはなお、出来うべくんば、この手をもってそれを把えようとする、物欲しそうなまなざしが残っているからである。

     ・・・徒に新しき予言者と、真正の救世主を待ち望むことをやめ、人生と世界との究極の意味を問うことをやめて、我々の各々がそれぞれその人生を操っている守神(デーモン)を見出し、且つそれに従って仕事に立ち還るべきであるという、マックス・ウェーバーの結論は、我々をして、その各々好むところに従って、アポロンとアフロディテと、その他数多の神々に供物を捧げ、そして最後に、或はむしろ最初に「知られざる神」の宮を祀ったという(『使徒行伝』第十六章)かのアテナイ人を思い起さしめないであろうか。・・・

     「新しいしかも真正な予言者」はすでに来ている。絶対に新たなる救世主は、すでに今ここに、私のところに、そうしてまた汝のところに立っている。キリスト・イエスとその証人の群、一巻の聖書が、我々の各々が究極に於いて何のために生き、如何に生きるべきかを語るであろう。・・・そこには、我々が「如何にあるか」ということの一厘も仮借するところなき根本的な認識が、同時に、「如何に生きるべきか」という問いの究極的な解決たらざるを得ないような、そういうあるものが指し示されているのである。・・・

     なおついでに一言するならば、マックス・ウェーバーがキリスト教神学について述べるところは、神学がその真の対象を見失った近代主義的キリスト教 Modernismus のそれに関わるものとしてのみ、一応正当な意義をもつことが出来るものである。ウェーバーが神学の真の対象に関して如何に盲目であったかは、彼の引用した聖書の語句の、ほしいままな、事態の全連関を全く無視した解釈に徴して明らかなことである・・・職業としての学問ーマックス・ウェーバーの講演に因んで」(1936)
    『著作集 8』(法蔵館)478~481頁より