• 【九番勝負】山本義隆批判

    2017.11.24

    絶対無償の肯定と人間の自己肯定には不可逆の関係が

     ところで学兄は「自己否定」という言葉が、「何だか大変なことのように」「シンボライズされ(て)一人歩き」しはじめたことに「ためらいを感じ」ながらも、やはり、「自己否定即自己肯定」の「弁証法的」運動について語られます。それに対して、私(滝沢)の「思想を一貫して流れているのは〈自己限定〉ということではないかと思う」と言われます。

     学兄の場合、その「弁証法」は、ほとんどの「哲学者」たちに見られる「言葉のもてあそびによる先走り」とは無縁なこと、実際の厳しい闘争の中から、自分にも思いがけなく起こってくる「自己変革」の過程、「〔たんなる〕『私人』を否定(止揚)して〔『共同体の存在を前提としている』真実の〕『個人』を求め」てやまない必死の「努力」そのものであることは、私にもよく分かるように思います。

     ただそれだけになお、学兄が、私の「思想を一貫して流れている」ものとして「自己限定」について語られる時、どこかまた、私の言おうとしていることが、よく通じていないのではないかという疑いを禁じることができません。

     「《自己限定》の基盤を『主体そのものの成立の根底に、その主体のあらゆるはたらきに先立って無条件に帰属する大いなる決定』と表現している、そしてこの〈自己限定〉のよって立つ根を謙虚に受け入れることによって『個人の自由』をかちうるのだ」(傍点筆者)というふうに、私の考えを引用もし、ある点正しく解釈して下さるにもかかわらず、やはり学兄の場合、生活と思想の全体の重心が、学兄御自身のはたらきに、つまり絶対に有無を言わさず無条件に恵まれてきている「大いなる決定」、「絶対無償の肯定即否定、恵み即審き」そのものではなくて、むしろその支配の下に起こりかつ行なわれつつある人間的主体的な自己決定(限定)の方に、置かれているという印象を拭えないのです。そのことは、御手紙の中の次の数行にも、それとなく示されているのではないでしょうか。

    「私はこのことを『人間でしかない』という〈自己限定〉の極限において最も『自由』たりうるという人間の自由・主体性の基盤の神学的解明であると受けとりました」。

     ここにも「人間の自由・主体性の基盤」ということが、はっきりと言われています。しかし、「人間でしかない」ということは、たとえある人において「自己限定」の明確、完成の度が「極限」までに達したとしても、第一義的な意味においては、決して「人間的、主体的な自己限定」ではなく、むしろそれに先立って常住不断に現在している単純至極の事実です。・・・

     重ねて申します。「自己否定即肯定の弁証法的道程」「『私人』を否定(止揚)して『個人』を求める努力」、そのために絶対に避けえない「徹底的対決」と学兄がいわれるその事自体に、私はいささかも異議をさしはさむわけではありません。

     ただその努力、行動により、言葉によるその対決が、現実の人の事として正確緻密に生起するためには、「ともにこれ凡夫(ただびと)のみ」という事実そのものに秘められている、人間的主体のではない、絶対無償・絶対不可侵の肯定即否定(否定即肯定)と、そのつど必ず何らか特定の形において生起する人間的主体的な「自己否定・自己肯定」との間には、後者の形の正邪・高低にもかかわらず、絶対に逆にすることのできない順序を含んだ区別と関係がある、どこまでも前者が先で後者は後、後者の形と動きとはすべてただ前者の支配する場においてのみ、時々刻々と起こりかつ行なわれるにすぎないということを、決して忘れてはならないというのです。

     なぜかというと、それを忘れたが最後、「眼には眼を、歯には歯を」というラディカルな闘いは、徹底的にラディカルであろうとして、その実は、実際の人生そのものの本当の根《radix》を遊離して、宙に浮いてくることをまぬかれません。自分でも半ばはそれと気がつきながらも、現代通有の、単に「抽象的一般的なヒューマニズム」の偽善に堕することを警戒するのあまり、いつのまにか、みずからを神とし、相手を悪魔とする傾きを帯びて来ます。

     眼に見える敵の首魁を「徹底的に粉砕」するつもりで、実際はそれとも知らず、当の首魁をその背後から操り、踊らせている眼に見えぬ本当の敵の首魁  キリストが「サタン」と呼んだ単なる虚無《das Nichtige》  の底なしの淵に向かって避けがたく驀進するようになってゆくからです。「若き攻撃的研究者へ ―山本義隆氏に送る」
    『大学革命の原点を求めて』(新教出版社、1969)
    399~402頁より

     

    *初出は朝日ジャーナル1969.6.29号での山本義隆氏との往復書簡で、同氏の「未だ見ぬ先達へ」に応えたもの