• 【二番勝負】カール・バルト批判

    2017.11.24

    神から人への道は到る所に開かれている

     我々は我々の考察の過程に於いて、信仰が狭義に於いても、換言すれば認識としてもまた、ただ神から、神の子からのみ可能であることを、原理的に確認し、同時にまた信仰が聖書によって我々に可能とされることを事実的に洞察した。是に於いて、「神から」という原理的な可能性と「聖書から」という事実的な可能性とがいかなる関係に立つか、という問題が生ずる。

     人から神への道はないということは原則的に確認せられた。しかし正にそのことによって神から人への道は常に到る処に且つ時々刻々に開かれている、三一の神はただ彼が欲しさえするならば何時でも何処ででも、この世界の中に閃き来って自己自身を啓示することが出来る、ということが意味されていはしないであろうか。

     ・・・我々はキリスト者として、聖書の外で神について語ろうとする凡ての他の本や著述を、それらのものをただ一度も読むことなしに、頭から全く呪われた偶像崇拝であると断定しなくてはならないのであろうか。我々はキリスト者として、異教徒に対し、彼らが悪魔の子であるという、一歩も退き得ない前提を以て立ち向かうことを許されるであろうか。・・・「信仰の可能性について」(1935、独文)
    邦訳『著作集 2』(法蔵館85頁より