• 【五番勝負】宇野弘蔵批判

    2017.11.24

    技術とは、人間の社会的関係と切り離せない

     さて、資本主義社会の歴史性、したがってまた商品経済の基本的諸法則の歴史性ということが以上のようなこととすると、そこにおのずから、宇野氏の所説に対する一つの重大な疑問が生じてくる。

     というのは、氏によると経済学の原理が自然科学のそれと違って、「歴史的」な社会科学のものであるのは、それが経済原則そのものにかかわるのではなく、商品経済の基本的諸法則にかかわるからである。しかし、商品経済に特有な法則というのは、もともと、われわれ人間がその生活の永遠に現在的制約の要求に忠実に応えない場合に、われわれの意志に反して、逆に  いわば天の懲罰を受けるというような形において  実証せざるをえない経済原則そのものの犯すべからざる権威である。

     だから、商品経済のなかの最も基本的なものを明確に理解するということは、積極的にいうと必ず、経済原則そのものの明確な理解ということでなくてはならない。経済原則の明確な理解には、必ず、それを理解しないことの可能性  人間がこのような原則であらわされる基本的制約に忠実であるか然らざるか、いずれかの生き方をする必然性  の理解が含まれていなければならない。

     それゆえ、経済原則の理解はそれが厳密に学問的であるかぎり、経済学の原理的理解から決して引きはなすことができないものなのではないか。前者は常識でわかるが、後者は特別な分析を要するというようなものではないのではないか。常識で分かったと思っていても、それは、ちょうど電灯がなければ、仕事ができないということが分かるということが、少しも電気の原理が分かったことにはならないのと似たことで、学問的論理的に、我々人間の経済的生産の現象を把握してはいないのではあるまいか。真にその名に値する経済原則の学問的理解というのは、マルクスが、それの理解のなかに価値の本質の完全な理解が含まれているといった労働の二重性にまで透徹したものでなくてはならないと思うがどうであろうか。

     氏は、「我々の社会生活に物質的生活資料の生産が必然的だ」という「経済原則」はいつ、いかなる処ででも、人間がそれを無視しては生活できない制約として、単に「自然必然性とでもいうべきもの」であるとか、単なる技術の問題にすぎないとかいわれる。しかし、氏の頭の中ではそうでありえても、人間が生活資料を生産することなしには生きられないという事実そのものは、けっして、氏のいわれる意味で「自然必然性」によることではないし、また自然科学の対象として把握しうる(その原理によって表現しうる)ことではない。それはすでに単に自然科学によってみちびかれうるような「技術」によっては処理することのできない現実なのである。

     人間が物を使って物を作り出すということは技術である。そしてそれをみちびくものは自然科学的な認識  人間の歴史にはかかわりなく永遠に現在的な自然法則の理解に導かれ、またこれを目標とするもの観察や分析  である。しかし、技術そのものはけっして単に自然科学的にこれを理解することはできない。それはすでに一つの人間的現象、人間の歴史的行為として、人間的労働そのものの本質と、したがってまた、経済的社会的関係そのものと、離すことのできない関係を含んでいる。マルクスが人間的労働の二重性を言いえたのは、すでにかれのこのような、技術の本質についての新しい洞察があったからではないか。これに反して宇野氏はなお、人間が道具を使って物を作るということが、何かこの世界の中に置かれている人間にかかわることではなくて、この世界の外にいる人間が中空から任意に物を処理するのであるかのように  あたかもわれわれが幾何学的空間を処理するのと同じように(実はこの場合にすら人間はけっして空間の外にいて考えたり、作図したりすることはできないのだが)  考えているのではないか。氏にはなお技術についての、単に技術的な見方  ベルグソンや多くの実存主義者もなお抜け切らぬその見方  が残っていはしないだろうか。「社会主義社会における自由の問題」
    『著作集 9』(法蔵館)264~6頁