• 【六番勝負】久松真一批判

    2017.11.24

    「覚」を絶対的基準とする傾きをまぬがれない

     ・・・キリスト教徒が、キリストの歴史的世界における基準的形像としての働きと、絶対の言(ことば)もしくは創造者としての働きとの明らかな区別を見分けることなく、例えば久松博士の「無神論的宗教」を、ただその言葉の端々に囚われて、頭から「神を涜(けが)す者」として断罪するならば、そのようなキリスト教徒はその根本のパリサイ的な心情において、われわれがこの評論の冒頭に掲げたユダヤ人たち、「神よりか、人よりか」と問うてイエスを試みたあの人々と少しも異なるところはないこととなるであろう。

     かれらもまた、かれら自身の自己成立の根底にほかならぬ神と人との永遠に現実的な区別を含む絶対に普遍的な接触点を遊離して、「聖なる神」と「罪なる自己」とが抽象的・孤立的に実在しうるかのごとく考えていたからこそ、元来かの絶対の接触点から出てそれを明らかに指し示しているモーゼの律法を唯一絶対の接触点だと信じたからこそ、その律法から全く独立に自己自身から語りながらしかも真実の神を語るというイエスの「傲慢」をどうしても容赦することができなかったのである。

     かれらは唯一の聖なる神の前にへりくだったつもりのかれら自身が、真実の神に対していかに決定的に傲慢な、ほしいままな独断を犯しているか、ということには夢にも思い及ばなかった。このようにして、かれらパリサイ人にあっては、唯一絶対の神を崇めるということが、いつのまにか、この世界の内部には決して起こりえない区別あるいは優劣の差を自分たちと他のすべての人々とのあいだに妄想し虚構するための単なる手段に転化した。

     『パリサイ人のパン種に注意せよ』(マタイ伝一六章五節以下)
     そう、くりかえし注意したとおり、イエスの生涯はじつに、神そのものの人としての躍動として、このような妄想と虚構の最初からの虚しさを徹底的に暴露するために費やされたのであった。もしも今キリスト教徒が、そのイエスの生涯をふたたび同じ妄想と虚構のために利用するようなことがあるとしたら、禍これより大いなるはないといわなくてはならないであろう。

     こういう意味において、久松博士の『無神論』は、たしかに今日のキリスト教にとって苦い、しかしはなはだよい薬だといってよい。その治癒的な効果は、たしかに神と人との永遠かつ普遍の接触点から、すなわち真に唯一絶対的な創造の主(語の最も厳密な意義における「絶対能動的主体」・「主体的主体」)からきているのである。

     ただ惜しむらくは、それは、キリスト教のパリサイ主義を排すると同時に、キリスト教信仰のなかに本来含まれている積極的な真実を曖昧にしてしまった。

     「往相・還相する私」というその「私」、「私の底から甦る」というその「底」、「此処を離れずして此処を脱する」というその「此処」それ自身を堅く心にとどめて、そこに現れるあらゆる形態を徹底的に  本質的ならびに事実的に、根元的ならびに歴史的に  考察し、批判し、創造するよりも、むしろ、いかに正しくかつ根本的であるとはいえただそこに現れた形態の一種にすぎない自分の「覚」を絶対的基準として、この世界のすべてのことを考察し、批評し、処理しようとする危険な傾きを免れなかった。

     むろん、その人の「覚」が「此処を離れずして此処を脱した」ものとして正しい人間の自覚であるかぎり、仏教徒の破綻は、単なる神秘主義、非合理主義ないし御都合主義にまで転落することはないであろう。それはあたかも、霊においてイエス・キリストを信じるキリスト教徒が、古来よく,ありとある異端の誘いを退けて、その正統を維持してきたのと同様である。

     しかしながらそれにもかかわらずキリスト教が今日、その形態の不自然な硬化と、したがってまた、旧教からの新教のそれに始まる果てしない分裂を経験しつつあるとすれば、仏教における無数の宗派の濫立と、仏教徒に事実ありがちな、広い意味での科学的研究と歴史的・社会的建設への無関心、つまるところは政治的御都合主義とが、おそらく仏教の最善のものにもなお残る右のような曖昧と何のつながりもないものとは、何人も断言することができないであろう。「仏教とキリスト教」(1950)、『著作集 7』(法蔵館)343~5頁より