• 【十番勝負】山本七平批判

    2017.11.24

    人間の思いに先立つ自己成立の根底に盲目では

     おそらく、ベンダサン自身はそういうつもりであろう。・・・しかし、それにもかかわらず筆者には何としても、かれがなお、日本人の現実を、かれ自身のいわゆる「日本教」「天秤の世界」の現実の真実相を、十分によく見きわめていないように思われるのだ。・・・僭越を顧みずあえて言うなら、かれは「日本人」との比類なく深切な交わりをとおして、「人間」についての日本人独得な考え方を、せっかくあそこまで明らかにしながら、残念なことにまだ、事実存在する人間とはそもそも何か、結局のところどこにいるかについて、徹底した理解を欠いている。

     自己自身の生の真実の支え=判断の窮極的基準についての日本人の「無自覚」をあげつらいながら、かれみずからは、この問いを自己自身の生死にかかわる問いとして、突きつめて問うことさえしない。「まず、人間であれ」ということが、「繰り返し、繰り返し、実に執拗なまでに絶えず強調される」(同上七一頁)のが日本教の特質だと指摘しながら、「人間」そのものについて右の問いをみずから徹底的に問うことなしに、「日本人」もしくは「日本教」についてほんとうに正しく語りうるかのごとき、安易な幻想にとらわれているように見える。

     その証拠には例えば、かれが「いわば自己の言葉を客体化して、自らこれと対決することによって、自己の言葉から自由になる、として(ママ)これを”自由”と考える、という考え方が皆無」だと、日本人を批評するとき、そう批評するかれ自身はいったいどこに立っているのか。「自己の言葉を客体化する」とか、「自らこれと対決する」とか、「自己の言葉から自由になる」とかいうことは、そもそも自己自身のどこに基づき、何に向かって、人間にとって可能ないし必然なのか。  すべてこれらの肝要な問いについて、ベンダサン自身はなにひとつ積極的に明らかにしてはいないのだ。

      ・・・いうところの「天秤の世界」にかんするイザヤ・ベンダサン自身の盲点がどこに潜むかを、読者はすでに見抜いておられることであろう。第二部においてとくに詳しく明らかにしたとおり、人間の全生活(全人類の生)を支える窮極的支点は、たしかに事実存在する人間そのものに直接かつ無条件に帰属する。しかしそれはけっして、イザヤ・ベンダサンのそう考えているように「人間という概念」ではない。いな、まったく逆に、人間のあらゆる思いに先立って、真にそれ自身で実在する自己成立の根底である。・・・

     真にそれ自体で実在する人間の支点を、「人間」の一語で言い表すことは、かならずしも全然誤りというわけではない。・・・西洋の近代においても、かならずしも自覚されなかったわけではない。・・・問題はじつに、そのような「自覚」にもかかわらず近代の人が、当の「人間」の存在の事実そのものに絶対無条件に直属する  それなしには人間の主体性が事実的には全然成り立たない  根源的・弁証法的関係にかんして全然盲目だったという点にある。・・・

     「日本人の生全体の支点・窮極的基準は“人間”という概念である」。しかし「『人間』という言葉は日本人にとっては単なる言葉ではなく、他のすべての言葉と対置さるべき“実在”である」。「日本人には事実と語られた事実の区別がつかない」

     と、イザヤ・ベンダサンは言う。しかし、そのように批評するかれ自身には、「人間」という概念・言葉と、この言葉が本来それの射影・表現たるべき事実そのものの区別が、はっきりとついているであろうか。この肝要な一点にかんして、「日本人」だとか、「ユダヤ人」だとかいう特殊な資格・歴史的な制約を盾に、問題を逃げてはなるまい。

     それらのことがどうあろうと、かれ自身の事として、事態を徹底的に見きわめなくてはならないであろう。この困難な一事をを避けているかぎり、「日本人・日本教」はどう、「ユダヤ人・ユダヤ教」はこうなどと、あらゆる文献を駆使して述べたててみても、そしてその解説・批評がある点どんなに当たっていようとも、そのすべて、つまりかれ自身は依然として、イヴァン・カラマーゾフの苦しみをよそに、その弁舌の巧みさにみずからも酔い、ひとも煙に巻く、近代人の一典型にすぎないという批判を、免れるべくもないであろう。

     そうして、かれ自身が「正真正銘のユダヤ人」であれ、「かりにユダヤ人の名で語る日本人」であれ、またそのほかの誰であれ、その根本において「近代」の枠を脱しないかぎり、事実存在する人間としての日本人についてもユダヤ人についても、こんにちけっして、これを真に「客体化」する道、事実あるがままに「見」、理解し、批判・変革する方途の開かれようはないのである。『日本人の精神構造』(講談社、1973)228~233頁より抜粋
    (滝沢によるベンダサンの引用は『日本教について』(文芸春秋社)
    からである。文中、頁数の表示はすべて削った)