• 【四番勝負】カール・マルクス批判

    2017.11.24

    土台とその上に立つ物には不可逆な関係がある

     『ドイッチェ・イデオロギー』におけるマルクスの新しさは、かならずしも単に、宗教を始め人間生活の「精神的」側面に対する、「物質的」側面の「土台」的性格を発見し、強調した点にあるのではない。その「土台」そのものがいかなるものかを、その歴史の現実に即し、その本質の根源的な構造にまで立ち入って、真に学問的に究明しようと志した点にあった。

     典型的な資本主義社会の出現の過程にそうて発展してきた国民経済学の徹底的な研究は、かれをしてついに、「それを中心として経済学の理解が転回する跳躍点」として、「労働の二重性」の概念を批判的に確立せしめた。それはおそらく、『ドイッチェ・イデオロギー』のはじめに、歴史の大前提をなすものとして高揚された「物質的生産労働」そのものの、もっとも深くかくれた基本構造を、商品形態の分析・批判をとおして、始めて明らかにしたものといってよいであろう。

     ただしかし、それにもかかわらずマルクスは、「商品の二要因」に対応して、そのような「二重性を帯びた労働」・あるいは「労働しつつある人間」そのものに含まれていることとして私が前章に明らかにした根源的な包摂関係については、寡聞な私の知るかぎりあからさまにはついに一度も、これに言い及ぶことをしなかった。ところが、実際は、物質的生産労働が人間の生活・社会の第一の「土台」だということを、よしいささかの留保もなしに承認するとしても、この土台的行動そのものに、よくよく見ると、マルクスのいう「二重性」と不可分であるがそれとはまた全然意義を異にするところの、根本的な二重性が含まれているのである。

     なぜかというと、他の諸物を支配し、生産する主体としての人間の労働は、他の何ものの働きでもなくて、あくまで、そのような人間自身の能動的な働きである。ところがまさにこのことが、全然人間の働きによって成ったものではない規定・それに対しては人間的主体が全く単純に受動的であるほかない本質的な規定の支配のもとにのみ、実際に起こりうること、おこっていることなのである。

     それに対して絶対に受動的だということ、いかなる意味でも主体ではなくてまったくただの客体に過ぎないということは、人間的主体が動物と異なってあくまで選択的な主体でないということではない。むしろ全然逆に、絶対に避くべからざるその規定の支配の下にあることによってのみ、人間的主体は始めて人間的主体として、立ちかつ伸びることができる。

     その支配の包摂する範囲の外に出るということは、人間にとって全然不可能である。それと知ってにせよ知らずにせよ、その支配に背反して自己自身を維持しようとする人間ないし人間社会は、逆にかならず単なる虚無の支配を受けて、枯渇し、混乱し、滅亡しなくてはならない。

     それゆえに、われわれが「観念論的」な主観主義、人間生活の事実の厳粛さから浮きあがったイデオロギーのたわむれを脱するためには、われわれは、ただ「宗教その他のイデオロギーの諸形態」に対して、物質的生産労働の土台性を強調するだけではまだ足りない。どうしてもさらに一歩を進めて、物質的生産労働そのものに含まれているところの、根源的本質規定と歴史的形態規定とのあいだの、一種ユニークな包摂関係にまで立ち入らなくてはならない。

     砕いていうと、ふつうにいわゆる「土台」そのものにおける真実の土台とその上に立つ建物、前者に固有な根源的法則の支配と、その避けがたい支配の下に行なわれる人間の主体的活動とのあいだの、たがいに分離すべからず、混同すべからず、逆にすべからざる弁証法的関係を明らかにしなくてはならないのである。

     ・・・あきらかにそれを言い表わすにいたらなかったということは、おそらくかれ〔マルクス〕もまたかれの先輩たちと同じように時代の子として、近代市民的な「ヒューマニズム」の呪縛をまだ十分に脱しなかった証拠でもあろう。・・・〔しかし〕この「土台」そのものにおける「土台」とその上に立つものとの不可逆的な関係を正当に評価するということが、マルクスの「唯物論」の唯物論たる所以であろう。この不可逆的な構造を見失うかぎり、いかに「土台」の優位を強調しても、ひとは極端に空虚な「観念論」に落ち込むことをまぬかれない。「現実にあるがままの個人」とは何か」(1957)
    『著作集 6』(法蔵館)67~99頁より抜粋