• 【八番勝負】八木誠一批判

    2017.11.24

    新しい生命の基盤としての神的なイエスの座への眼を

     しかし、以下の諸点において、氏と私はまったくその見解を異にするがごとくである。

     (1)氏は「正しい宗教的実存」ないし「実存論」から、一方、哲学的な「存在論・認識論」を、他方、一般に「神学」を、排除する。これに反して私は、真に正確な実存論は、哲学ないし神学に対して氏のいうごとく「中立的」ではありえない、事実存在する人は、人ではない神においてのほか、どこにも成り立ちえない以上、正しい存在論、真実の神の認識を欠く人間的実存は、かえって純粋に人間的たることを失う、と考える。

     聖書にしたがって、カール・バルトの明らかに言うとおり、人間の正邪・善悪・賢愚を超えて、真に親しくかつ公平に人間にかかわるものは、「イエス・キリストの父なる神」のほかにはありえない。人間にとって真正の中庸の道は、実践的にも、理論的にも、ただそこからだけ開けてくることができる。

     この狭き門、この細い道を素通りして、人間の「正しい実存」を「前提」に据える者は、よし「イエス的実存」といっても、そのことによってすでに、存在と虚無、神と悪魔の区別さえさだかならない霧のなかへ迷い入ることをまぬかれない。氏のいわゆる「純粋直観・対他連関」についてもまた、このことがそのままに当てはまらないかどうか、私ははなはだ疑いなきをえない。

     (2)・・・氏はナザレのイエスの宗教的実存、一般に「正しい実存」とは別に、それを超えて哲学的な存在論・認識論とキリスト教的神学の営まれることの可能と必要を信じて、この課題を将来に残す。しかし私は、そのようなものの必要性はもとより、可能性さえ認めない。・・・

     (3)氏における右のような曖昧は、聖書に即してこれをいえば、「神の子イエス・キリスト」の見つめ方、このペルソナの分析の不足である。もし人イエスの「宗教的実存」を言うなら、それが、その人の成立の根底に厳存する神人の原関係の大前提のもとにのみ現実に生起したこと、したがって現実の人イエス自身の人間性においてもまた、事実存在する神と人とのあいだの絶対に不可分、不可同・不可逆的な、この関係に応じて、永遠に現在的な神の子キリストのはたらきと、これに完全に照応する人間的主体的なはたらきとして、その時その所に、歴史の内部に、始めて生起した形とのあいだ(かんたんにいって、福音の《Sache》 とその完全な《Zeichen》のあいだ)の、同様に不可分・不可同・不可逆的な関係が成り立っていること  すべてこれらのことが氏においては見のがされている。

     氏の「実存論的解明」によると、これらの事象そのものにかかわる聖書の表現は、ただそれだけで考えられた「宗教的実存」体験の内部から、その「原理」として反省的に表白・措定せられた観念として、その存在論的ないし認識論的な真偽批判は、それとは別の神学的・哲学的検討に委ねられることとなるのである。

     しかし私見にしたがえば、まさにそれとは正反対に、そのような聖書独得の表現こそ、イエスの実存の本質的性格についての、その真実の隠れたる基礎からの、すなわち真に学問的な理解・説明なのである。イエスの実存の真実あるがままなる理解と説明は、たとい「本質的にそれにひとしい」われわれの実存であっても、単に人間的主体的な実存の内側から、これを遂行することはできない。・・・

     (4)聖書の純粋なイエス像を構成する二重の二重性  いわば絶対に不可逆的な秩序において区別せられる神と人との、唯一原点における「実体的」な統一と「作用的」な統一として、二重の二重性を帯びた構造  をそのまま認めるとき、われわれはまた初めて、この像の人間的・歴史的側面すなわちイエスの実存の、由来する処・赴く処を、(a)神的・根源的と (b)人間的・歴史的と二重の意味において、明らかに見ることができる。

     一方、神的・根源的なイエスの座に基づきかつそこへ向かって、人間的・歴史的なイエスの位置  旧約・新約両聖書を分かつとともに結ぶ中心点、イスラエルの民からキリスト教会への転回点として、すなわち世界そのものの導きの星であるイエスの十字架の深い意義  が理解せられる。と同時に、他方、人間的・歴史的にこのような位置をしめるイエスの姿を介して、われわれはすべての人のために備えられた新しい生命の基盤としての、神的・根源的なイエスの座に眼を向けるよう導かれる。

     そのかぎり、聖書のイエス像は、それによってすぐにいわゆる「史実」としてのイエスの一生を知りうるような模写ではなく、いわば神人の原関係の圧力によってそれから脱化した純粋な人の像であるにはしても、まさにそのことによってそれじたいかえって、現実の人生・歴史をその最も捉えがたい内奥の芯にかんして、ありのままに、真に客観的・科学的に探求するための、具体的方法として役立つことができる。

     聖書のイエス像そのものの、このような方法論的意義を明らかに自覚することをとおして、われわれは初めて、ナザレのイエスとかれを取りまく社会の史実を、それとして真に科学的に、多かれ少なかれ、聖書のイエス像からずれているありのままの姿において探求・解明する可能性を獲得する。このことなしには、せっかくの史実尊重の精神も、当該史実の、最も興味深く重要な部分を、科学的な史学の外に追いやってしまうことになるほかはない。・・・

     (5)聖書のイエス像の方法的意義を右のごとく理解する者は、やがてまた、聖書に導かれつつ聖書を本質的ならびに歴史的に考察・理解し、説明・吟味することをつとめる「キリスト教神学」が、その局面こそ異なれ、あくまで客観的・主体的、感覚的・理性的なその方法において、他の諸科学、なかにも宗教的実存の対極としての生産的実存にかかわるものとして、ひとしく基礎的な人間の科学たる経済学のそれと深く通ずるもののあることを見出すであろう。・・・

     (6)最後に氏は、宗教的実存たるかぎり仏教とキリスト教とのあいだに、本質的な一致を想定する。たしかにそれは、従来のキリスト教界、仏教界に、ほとんど見られなかった深い直覚が含まれていることであろう。或る範囲において、筆者もまたそのことを否定しえない。しかし、それにもかかわらず、イエス・キリストのペルソナの分析は、私をして、仏教の根本的感覚もしくは自己理解と、キリスト教のそれとのあいだに、しかく容易に見すごすことを許さない微妙な相違の潜むことを気づかしめずにはおかない。・・・「聖書のイエスと現代の思惟」(1965)
    『著作集 7』(法蔵館)237~242頁より

     

    *この批判に八木誠一氏が応答し、以後滝沢の死に至るまで20年に及ぶ論争が始まった。