• 中学生にもわかる滝沢克己(その1)

    2017.10.18

    滝沢克己協会提供(前田保)

     

    滝沢さんは偉い学者だそうだけど E=mc2乗みたいな核心的な表現はあるの?


    そうだね「絶対の非連続の連続即相対的並びに周辺的非連続の連続」がそれにあたるかな。


    なにそれ?


    生きた世界を根底から捉えたときの枠のようなものかな。しかし、最初の所が大事だよ。


    絶対の非連続の連続というところ?


    そうだね。これを「客体的主体」とひとことで言ったり、もっと詳しくいったりする。たとえば、「絶対的主体即客体的主体の二重の二重性(不可分・不可同・不可逆)」などとね。みんな同じ事を言っているよ。


    表現は簡単な方がいいや。「客体的主体」って何なの?


      そう。「招かれた」といったけど、そういう風に受動的だということだね。人間は、といってもこのボクのことだけど、本当の主人にお招きを受けたお客さんだということ、そこにボクのほんとうの尊厳と自由があるんだ、出てくるんだ、というんだ。
     大事なのは、人間をそういう風に客体と主体の二重性でつかむということだよ。関係といってもいいし、構造と言ってもいいと思うけど。
     このボクはただポツンとそれだけであるんじゃないし、いるんじゃない。はじめから二重なんだ、関係、構造なんだ、ということだね。そしてそうなっているのは認めるほかない事実なんだということだよ。受身だとね。ここが常識と違うところだからしっかりおさえなければいけない。


    たしかに違うね。ぼくたちは学校で「人間は個人として尊重される」とならったし、「個人の尊厳」という言葉もならった。憲法や教育基本法にあるからね。個人の二重性なんて聞いたこともない。


    そうだろ。それは困ったことなんだ。


    えっ、どうして。


    たしかに個人は尊重されなければならない。さっき人間が主体だ、自分自身の主人だと言ったとおりね。でも、それだけだと人間は宙に浮いちゃうんだ。だって、もしそれだけなら人間は何をしようと勝手ということになる。レール無しに突っ走らなければいけなくなる。そんなこと実際出来ないんだ。人間には耐えられないんだよ。


    うーん。よくわからないけど、二重性といえばそうじゃなくなるの?


    そうなんだよ。人間を客体的主体の二重性でとらえるということは、同時に本当の主体を考えることだからだよ。つまり、人間をお客さんとして招いた本人をね。それが絶対的主体とか主体的主体とよばれたものだよ。人間はお客さん(ゲスト)としての主人(ホスト)で、ほんとうのホストはそのゲストそのものを招いたものだね。だから、客体的主体というのは詳しく言うとけっきょく「主体的主体即客体的主体の二重の二重性」ということになるんだ。さっきいった人間における二重性と、その人間と主体的主体との二重性。で、二重の二重性というわけだ。


    ふーん、よくわからないけど、それを考えると人間が宙に浮かないというの。


    そうなんだ。だって、主体的主体のことを考えるということは、人間には生きる上での招きが来ているということ、自分で決める前にそれがもう来ているということを知ることだからだよ。レールがあるとね。この世に生を受けた瞬間から。だからその上を進めばいいんだということになる。足が地につくんだね。宙に浮いていた足が…


    でも、それだったら人間は主体的主体とやらの「いいなり」で、自分で敷いたんじゃないレールの上を走らされるということになるから、自由どころか奴隷になっちゃうし、尊厳なんてなくなっちゃうんじゃない。


    そう、でもそう考えるのは、人間がポツンと居てそれだけで尊いと考えているからにすぎないんだよ。そうとしか考えられないということは、実際にそうだということにはならないんだ。人間のほんとうの尊さは、人間のものではない(というのは人間の誰も「招き」を頼んだ訳じゃないからね、それは本当のホストが決めたと言うほかないんだ)、人間のため、その人ひとりだけのための生きる基盤(招き)が誰のところにも来ているところにあるんだよ。人間が自由だというのも、全人類共通のその基盤からの招きに従うところにあるんだ。


    うーん、よくわからないけど、それは神さまみたいなものを考えているわけ?


    そうだね。「主体的主体」を宗教では「仏さま」とか「神さま」といっているんだ。古くからある優れた宗教はあの「二重の二重性」ということを知っていたんだよ。でも「主体的主体即客体的主体」ということは宗教だけの話じゃないんだ。むしろ宗教に興味のない普通の僕たち人間すべてひとりひとりのあり方を言っているんだ。だから、宗教もこの「ことわり」の外に出られないし、それで充分なんだね、それは宗教の真実の基盤でもあるからね。


    宗教も含む理論なのか。でもその「ことわり」ってのはどういうこと。


    それは「即」というところに隠されているんだよ。それを取り出すと「不可分・不可同・不可逆」となる。


    えーえー、ちょっと待って。訳わかんない。


    そりゃ、簡単じゃないんだ。だからノーベル賞級なんだ。それはともかく、その話をしなければいけないね。

  • 中学生にもわかる滝沢克己(その2)

    2017.11.25

    滝沢克己協会提供(前田保)

     

    「即」っていう字は前から出てきたけど、そこに「ことわり」があるの?


    そうなんだ。それを「不可分・不可同・不可逆」と圧縮したんだ。すこし説明がいるね。


    いきなり圧縮されちゃ、わけがわからないよ。


    そもそも「即」は「般若即非」(鈴木大拙)の即なんだ。仏さまの知恵(般若)だね。


    ふーん。由緒あることばなんだね。


    そうだね。「即非」というのは「AはAでない(非)、すなわち(即)Aである」(西田幾多郎・秋月龍民)という論理なんだ。


    それが仏さまの知恵なんて、信じられない。「山は山じゃない、すなわち山だ」なんてこといったら、アホか、と言われちゃうよ


    それはつらいね。しかし、それは僕たちの日常の論理が「AはAである」(同一律)や「Aは非Aでない」(矛盾律)から出来ているからなんだ。仏さまから見たらこのほうがアホなんだ。もっとも仏さまはアホなんていわない、衆生(ふつうの一般人)の迷いというだろうけどね。


    つまりさかさまの世界?


    二つを並べればそういえるけど、仏さまからみると日常の論理の世界は存在しないんだ。まぼろしなんだね。まぼろしに翻弄されているのが衆生の姿で、仏さまはそういう衆生を愛されて真実を説かれたというわけだ。目を覚ませ、とね。


    うーん、ボクの世界はまぼろしなの? 迷いの世界か。


    まあ、仏さまの知恵から見るとそうなるんだね。というのも、僕たちの世界の論理は「ものがそれだけでポツンと在る」という見方からくるんだ。そういうふうにものがあって、そのあとでいろいろな関係が起こり、形が出来てくるという見方からね。こういう見方を実体主義というんだけど、僕たちの論理はそういう存在感覚にはまっているし、また、これを支えているんだよ。


    じゃ、仏さまの知恵の世界はどういうの。


    それが二重性なんだ。人間は主体的主体と二重だったね。仏さま、神さまとね。これは人間がそれだけでポツンと在るんじゃない、居るんじゃないということだったね。仏教でいえば諸法無我、縁起ということにつながって、実体主義から脱した仏の知恵になるけど、いまは措こう。
      即非の論理をこの人間に当てはめると「人間は人間にあらず、すなわち人間なり」となる。「人間にあらず」という否定は「仏」や「神」、「他人」や「物」など、「人間以外のもの」で置き換えられる。「人間にあらず」のところに「人間以外のもの」を代入しても同じ事だからね。当面は仏や神といった主体的主体、絶対主体を考えよう。他人や物との関係は後で触れようね。つまり、「人間は神仏なり、すなわち人間なり」といえる。


    人間は「客体的主体」で、「客体的主体」は「主体的主体」と「即」の関係にあるというんだね。その即が「不可分・不可同・不可逆」だっていうわけ?


    そのとおりだよ。主体的主体とか客体的主体ということばは長すぎるから、簡単にそれぞれ神仏、人間という言葉を使おう。滝沢さんの理論の核心は宗教の核心をも捕らえるものだから、宗教の言葉でも同じ事が表現できるんだね。


    それはわかったつもりだよ。滝沢さんは宗教の宣伝をしている訳じゃないというんだろ。


    そいつはうれしいね。ところで、即の論理では、「神仏は神仏にあらず(=人間なり)、すなわち神仏なり」「人間は人間にあらず(=神仏なり)、すなわち人間なり」ということになる。二重性だからどちらからも言えるわけだね。
    ここで「あらず」と言うのが「不可同」ということになる。神仏は人間と違う、同じに出来ないし、しちゃいけないよ、ということだね。
    でも、そういうふうに「違うもの」が「すなわち」で結びついている。神仏は人間と切り離せないということだね。これを「不可分」というわけだよ。そして、この関係は人間にとっては一方的な関係なんだ。神仏がそれを決めたというほかないと前にいったね。とにかく、人間がそうなろうとしてなったのではない。もしそうなら、人間が自由に「解約」したり、「再契約」したりできるはずだからね。
    「人間やめます」なんていったって、そう言っているのは人間だからね。人間やめるのも人間を前提にしなくちゃできない、僕たちはこの外に出られない。また出る必要はないし、それで充分なんだ。どんなに苦しくても屈託のない子供みたいにうれしく楽しく生きられるんだよ。だって神仏と一緒(不可分・不可同)だからね。
    それで、この能動・受動の関係、先後の順序を逆転すべきでないというんだ。「べき」というのは「しちゃいけない」し「できない」から「しないのが適当で当然」というあらゆる意味でだね。これを「不可逆」といっている。
    こういうことがみんな「即」のところにあるから、いっぺんに「不可分・不可同・不可逆」というんだ。


    ふーん、「即」はひといきに「不可分・不可同・不可逆」という「ことわり」なんだね。なるほどうまくできてるね。なかなか納得はむずかしいけど、由緒あることばを解析して人間を常識とは違うふうに考えようとしているということは判ったような気がする。


    そうかい。すこしでも判ってくれればうれしいね。それじゃ、最後に、君の言う「納得」ということ、「由緒」ということについて考えてみよう。それと、「絶対の非連続の連続」のあとにあった「即相対的並びに周辺的非連続の連続」のことを考えよう。それでひとまず終わりにしようと思う。


    そういえば、E=mc2乗にあたるのは「絶対の非連続の連続即相対的並びに周辺的非連続の連続」だといってたね。


    覚えていてくれてうれしいよ。僕たちはそこから出発したんだよね。その出発点から最初の「絶対の非連続の連続」を取り出してみたんだね。でも、その後に「即」があるから、実はそれだけ取り出すのはあくまで便宜的なことだったんだ。いっぺんにすべてを理解することはむずかしいからね。一番大事なところを最初に考えてみただけだったんだ。


    そう、「絶対の非連続の連続」というところだけでも、なかなか納得できない「ことわり」なんかがあったしね。少しずつ理解していくというのは仕方ないと思うよ。


    わかってくれるかな。「絶対の非連続の連続」とは、「客体的主体」ということ、もっとくわしくは「主体的主体即客体的主体の二重の二重性(即は不可分・不可同・不可逆の即)」だったね。


    そうだった。思い出したよ。


    うん。でもじつは、「絶対の非連続の連続」はすなわち(「即」!)「相対的並びに周辺的非連続の連続」なんだ。


    むむ。まだ終わらなかったっていうわけ? また「即」が出てくるんだね。これも不可分・不可同・不可逆の即なの。


    そうだね。「相対的非連続の連続」っていうのはボクと君、ボクと物といった対人関係、対物関係のことなんだ。人と物をいっしょにして「もの」と書けば、「対もの関係」だね。


    それはわかりやすいよ。僕のまわりには見たり聞いたりする形で「もの」がある・居るからね。


    「絶対の非連続の連続即相対的並びに周辺的非連続の連続」というのは、「主体的主体即客体的主体」というところには、すでに「対もの関係」が入っているって事をあらわしているんだ。人間は仏さま、神さまと二重の関わりの中にあると言ったし、そのときそこでいう人間というのはこのボクだといったけど、同時に、君であり、物であったというわけだよ。最初の二重のかかわりの中にもう「対もの関係」が入っていたということだね。


    僕たちが関係としてあるということは、仏さま、神さまとの関係にあるというだけではなく、すなわち「もの」との関係にもあるということだ、と言いたいんだね。


    お見事。そのとき、その「対もの関係」もボクが決めた訳じゃない。それは認めるほかない事実、受け入れる他ない事実だということだよ。僕たちみんなひとりひとりそれで充分によく生きられるようになっている。それは本当に不思議なことだよ。仏さま、神さま(主体的主体)が決めたことだと言わざるをえない、他にいいようのないことだとね。
    そういったって、それでぼくの尊厳が奪われたり、自由が奪われたりするどころか、むしろ、そこにこそボクの尊厳や自由があるし、出てくる。「努力すればそれだけのことはある」と本当に言えるのはそこでだけだよ。
    だからこそ「対もの関係」をほんとうに大切にしなければならない。仏さま、神さまに繋がっているからね。そこで自分の尊厳や自由が感じられないということは、その人が自分のところにきている自分のための本当の「招き」を見失っている、本当の自分を見失っているということなんだ。どんな小さいひとりにでもそういうことがあれば、それは全世界の問題なんだ。「対もの関係」をそういうふうにほんとうに大切に考えることは実体主義的な人間観、世界観からは出てこないんだ。それが現代の根本問題なんだよ。


    そんな、あんまりいっぺんに言われてもついていけないよ。熱気は伝わってくるけどね。


    そうか、そうか。ちょっと走りすぎだね。はやく終わりたいんだけどなかなかむずかしい。まだ中途半端だけどここでまた一休みしよう

  • 中学生にもわかる滝沢克己(その3)

    2017.11.25

    滝沢克己協会提供(前田保)

     

    相対的並びに周辺的非連続の連続が「対もの関係」だってこと、この関係もそれだけで在るんじゃなくて「絶対の非連続の連続」と「即」の関係にあるんだから前者と後者は別物ではないこと、それどころか前者における積極的なものは後者からくること、だから後者が大事なんだって、そんなことが言いたいんでしょ。僕たちの常識とは反対だけどね。


    うまく整理してくれたね、そのとおりだよ。


    でも、「相対的非連続の連続」ってのは何なの。「対もの関係」だから、それは僕たちの生きているこの相対的な世界のことなんだろ。


    その通りだよ。それが「非連続の連続」っていうのはこういうことだよ。僕たちはこの世に生を受けたとき、いつ、どこ、誰、をすでに免れない。つまり、誕生日や生まれ故郷が、特別な時間、特別な空間として区別されるし、自分は特定の親の子である、ということも決まっている。
    要するに、客体的主体としてこの世にお招きを受けたとき、もう時間的・空間的、身体的・精神的、血縁的・地縁的等々の二重性の中にいるんだ。
    この二重性も受取る他ない事実だということ、それをしいて基礎付けようとすると、絶対主体の決定とでも言わざるをえないわけだけど、絶対主体なんてこの世にあるもの・居るものじゃないんだから、決定するものなき決定なんだけど、そんなことをいわざるを得ないんだね。
    そして、そういうこの世の様々な二重性を「非連続の連続」といってる。というのもそれら二重性の各項は、区別される(非連続)けど別々ではない(連続)、つまり不可分・不可同だってわけだね。
    それに時間・身体・血縁等々が先で空間・精神・地縁等々が後、つまり、ここでも不可逆といえそうだ。でもここでの不可逆は、主体的主体と客体的主体の二重性の場合とちがって、相対的な不可逆性なんだ。
    生命が始まり、ひとつの身体が産み落とされる、そのとき特定の親がすでに立っているわけだね。でも、時の開始は同時に場所の限定であり、場所無しにありえない、また、人間に於いて身体は生命的なもの・精神的なものであり、それ無しにありえない、親も子無しに親じゃない。だから相対的な不可逆性という。
    これをまとめて相対的な非連続の連続(不可分・不可同・相対的な不可逆)というんだ。


    ふーん。よく考えないとむずかしいね。でも、周辺的というのはどういうこと?


    それはね、相対的な非連続の連続のどの項も、そのなかにさらに非連続の連続を派生させるっていうことだよ。


    たとえば?


    「時間」でも「空間」でもいいけど、時間を考えてみよう。そうすると、直線的時間でも円環的時間でも刹那滅的時間でも、僕たちはイメージに描いてみるよね、描かないと考えられない。そのときもう空間的なものが出てきちゃうだろ。イメージは空間に展開するからね。時間だけの世界、空間だけの世界は考えられないということだ。ここには思考とイメージの「非連続の連続」も見られるね。
    だから世界はマトリョーシカ人形みたいに、入れ子型になっているとも、ライプニッツのモナドの世界や華厳仏教の世界のようだとも言えそうだね。


    ひとつひとつどんなものにも全世界が宿っているようなイメージかな。


    そうそう、そのとおりだよ。その尖端まで「非連続の連続」だって言う訳だね。項のひとつをそれだけで取り出すことは出来ないんだ。どんな一つのものも全世界につながっている。複雑系の発想はここに入っていると思うよ。
    そして大事なのは、そういう世界が「絶対の非連続の連続」の主体において、その主体の決定の下にあるって言わざるをえないってことだね。それは認めるほかない事実。事実といっても相対的世界内部の事実とは次元が違うから「根源的事実」とか「原事実」などというわけだけど、これがあるって事がけっきょく一番大事なんだよ。
    それがないと、世界は「虚空に浮かぶバラバラの塵」となって散らばってしまう。僕たちの常識がそういうものでないか、疑わしい。


    むむ、きびしいね。でも「絶対の非連続の連続即相対的並びに周辺的非連続の連続」っていうのが壮大なビジョンを含んでいることは判った気がする。


    うれしいね。とりあえずそれだけでも伝わるといい。アインシュタインのE=mc2乗は残念ながら究極の兵器に応用されちゃったけど、滝沢さんの理論は理解されてよい方向に応用されることを待っている。
    でもそれが難しい。「理論」というものについての常識的な考えを覆さなければならないからね。最後にそういう話をして終わろうね。「納得」ということ、「由緒」ということを考えるんだったね。

  • 中学生にもわかる滝沢克己(その4)

    2017.11.25

    滝沢克己協会提供(前田保)

     

    「理論」「納得」「由緒」、どこから行く?


    そうだね、「由緒」っていうところから入ろうか。滝沢の理論に「即」の字が出てきて、それが鈴木大拙や西田幾多郎、また、秋月龍民(民の字は正しくは王偏がつきます…筆者注)などが使った由緒ある言葉だということだったね。この点は大事なことなんだ。
    哲学は先人の考えを踏まえることをその精神の一つとしているんだ。ギリシャ以来そうだね。滝沢の理論はそういう哲学の精神の産物でもあるんだよ。個人的な体験の表白とは一線を画するんだよ。
    もちろん先人の考えに何を加えたかが大事なことだ。その点では「不可逆」というのが滝沢の業績ということになるだろうね。「ノーベル賞」の核心もここにあると思うよ。


    「不可分・不可同」までは大拙・西田にあったというわけ。


    そうなんだよ。でも「不可逆」ははっきりしなかった。滝沢が取り出したんだね。これで、宗教を含む人間現象の正常形態と疎外形態がどこからどう分かれてくるか、どこに疎外克服の拠点があるのかが明瞭になった。
    現生人類16万年の迷妄がそれとして明るみに出されたんだ。興奮しないではいられない。経済社会の問題や精神病理の理論にも使えると思うよ。
    といっても理論なんて悲しいもので、世の中なにも変わらない。それはE=mc2乗と同じだよ。悪用しようと思えばされちゃうのも同じだね。それは人間の問題、責任の問題だよ。とにかく、理解してくれる人がほとんどいない状態では、由緒ある理論だから検討してくれと叫ぶしかない。で、「理論」と「納得」の話に移ろう。


    不可逆は今それ以上突っ込まないでおくわけだね。まあ、機会があったら触れてもらうことにしようかな。


    そうしようね。ところで、僕は「理論」と言ってきた。しいて言えば「哲学の理論」だね。でも、君はなかなか「納得」できない。それは西洋精神史に関わる問題を孕んでいるんだ。
    簡単に図式化するよ。西洋では中世の末期に普遍論争というのがあった。普遍が実在するか否かをめぐって、実念論と唯名論が争った。といってもカトリック教会内部の論争だね。神を否定する議論ではない。唯名論は神を個物とのかかわりで捉えようとした。この流れがルターの「ただ信仰によってのみ」という宗教改革に至るんだ。個人が前面に出て近代という時代が開かれる。
    この方向に、一方ではカルヴァンの説から資本主義の精神が生まれ、魂なき専門人が社会に溢れる、他方では宗教が個人の内面のことになっていく。つまり、神と個人の関係が逆転してしまうんだ。
    理神論や啓蒙の無神論などが出てくるし、カントは、まだ神の存在証明を本気でやっていたデカルトたちの試みを粉砕して、「単なる理性の限界内」の宗教しか語らなくなる。
    ドイツ観念論やロマンティークの動きは出たけど、19世紀になれば合理主義の謳歌となったんだね。かろうじて実存(「この私」の問題)に神が真剣に考えられる場が残されたぐらいだね。
    なにがいいたいかと言うと、近代の哲学は神を前提にしないことを共通の了解としてきたということだよ。中世の思考の根本問題であった啓示神学と自然神学の問題は亡失され、完全に忘れられてしまった。啓示を問題とする場がなくなったんだね。しかし、啓示と呼ばれたような現象が亡くなったわけではない。
    西田哲学は近代の哲学を自覚しながら、啓示と神の存在の問題を哲学の根本に据えたんだ。精神史的に大雑把に言えば、実念論の哲学を試みた。そうすると西田の立場はどうしても神秘的な宗教経験を披瀝したものとしか捉えられない。現に田辺元の批判がでる。
    西田の学統にたつ滝沢の理論も、唯名論の果てに人神を立てた近代的思考と百八十度異なるものとならざるをえない。なかなか納得されないんだね。
    というのも、こういう理論がほんとうに「納得」されるには主体的主体そのものがその可能性を開かなければならないからだよ。そういうと宗教体験のない者は排除されるし、そんな前提で哲学は成り立たないということになるが、それこそが近代的な視野の限界なんだね。
    ひとつには宗教体験の有無に関わらず、神は実在するすべての人の根底にあって一人一人に関わっている。これが原事実だということだね。体験にこだわる批判にはそのことが抜け落ちてしまう。
    同時にそういう批判は、宗教体験があれば人間が神仏のような存在になると考えてしまう。まったく逆に、宗教体験が人間の在り方(罪悪深重)の徹底的解明でもあり、したがって、宗教体験など何も保証しないという認識の獲得だという可能性にはまったく思い及ばない。実は、不可逆の理論はこの点にも関わるんだ。
    いきなり結論言っちゃうけど、「体験」にしても「理論」にしてもなんぼのもの、ということだね。それが宗教体験であっても、ノーベル賞級の理論であってもね。それが最後の大事じゃない、ということ。
    最後の大事は主体的主体があって客体的主体と即であり、そのことが即、僕たちの平常底=生活世界だってことだよ。今、ここで生きているっていること以上に大事なことはない。そこに問題があったらそれは神さま仏さまが苦しんでいるということだ。だから全力でかからなければならない。逆じゃない。不可逆だ、っていうわけ。
    というわけで、不可逆はその主張自身にも適用される。滝沢がなによりも「原事実」を強調していたほんとうの意図だよ。


    むむ、むずかしい。けど、滝沢の理論が歴史的な背景を背負っていること、そこで僕たちの常識との激しい戦いが繰り広げられているらしいってことは判ってきた。まだまだ「納得」は出来ないけど、常識を疑ってみる余地がありそうなことだけは判ってきた。


    そうかい。僕もとにかく言いたいことを言ってみた。お互いもっと深く考えるきっかけになればいいね。これでいったん話を終えることにしよう。


    長いことありがとうございました。


    こちらこそ。

     

    「由緒」ですが、大拙・西田だけではなく、バルト神学、および、デカルトからマルクスまで近代哲学も滝沢の理論の源になっています。今回はその点は背景に沈んでいますが、無視できません。

    「宗教体験」や「理論」について、それがなんぼのものか、と書きましたが、そういいうる、また言わなければいけない局面があるということで、体験や理論一般を貶めるつもりはありません。

    ただ、その局面というのがとても大事だといいたいわけです。体験さえあれば、理論さえあれば、という立場(体験主義、理論主義)に対して、それがなんぼのもの、と言いたいわけです。

    その点、ポジティブに言えば、滝沢の理論、とくに「不可逆」は自己言及的である、ということです。それも自己否定的な自己言及です。

    それをひらたく言えば、滝沢の理論が教えているのは、この世に何も頼りになるものはないということ、そういう言及自身を含めてそうだ、ということになるでしょう。

    それで充分であり、それでいいということ。何かにしがみつかなくても、したがって滝沢の理論とかにしがみつかなくても、人間は生きていける、現にそうなっているからそう生きてみなさい、ということになるのではないかと思います。

    「現にそうなっている」ってところを自分で掘ることが第一で、あとは第二、第三のことだ、と。