• 克己十番勝負

    2017.10.18

     滝沢克己は日本の思想家には珍しく論争的な人物だった。その中には二十世紀
    の大思想との格闘がある。かれの生涯から十の批判をとりあげて参考に供しよう。
     新吾十番勝負ならぬ克己十番勝負!
    (なお相手側からの滝沢批判や反批判がある場合もあることを添えておく)

  • 【一番勝負】西田幾多郎批判

    2017.11.24

    永遠の生は永遠の死に比すべくもなく強い

     ここに於いて私は一つの重大な疑問を禁ずることが出来ない。創造主と被造物との間の侵すべからざる秩序を表す絶対の非連続の連続は、果たして「絶対の生即死」という言葉を以て適切に言い表されることが出来るであろうか。・・・

     ・・・ここに於いて私は前の疑問と連関して、もう一つの重大な疑問に逢着せざるを得ない。即ちかくの如き意味に於いて弁証法的なる実在の動きを、「弁証法的一般者の自己限定」として単に一元的なるものの如く言い表わすことは、果して適切であるか否かということである。かくてはなお、禁断の樹の実を食うことによってひらかれた眼による物の見方が、いまだそこに残っているという重大な誤解を避け難いのではあるまいか。

     もし「弁証法的一般者」、即ち絶対の非連続の連続の媒介者が創造して創造せざる絶対の主体として神を意味するとするならば、そこから物が生まれ、物を身体としてもつ人間が生まれ、その消極的条件として単なる虚無が置かれるということは出て来るであろう。しかしただそれだけからは、その人間がいつも神を逃れて樹陰にかくれなければならない人間であり、その虚無が彼を空しき焦燥と矜持に追いやるところの絶対の死であるということはどうしても出て来ない。両者の間には如何にしてもアダムの転落ということがなければならぬ。罪は何処までも我々自身の責任なのである。

     現実の私は創られたるものでありながら罪を荷う私として、生まれながらにして永遠の生命と永遠の死との間にある。それ故に私から見れば、絶対の生なる神と絶対の死なる虚無とは、各々常に測るべからざる力を以て私の歩みを限定する。否、私が神の光によって己の罪を認めざる限り、絶対の死は私に対して結局に於いていつも決定的な力をもつ。更に私が私を創る永遠の生命に眼をみひらく時、私はまた同時に必ず私を取囲む永遠の死の淵に眼覚めなければならない。かくしてそれはいつも絶対の死の面即生の面と考えられるであろう。

     しかしそれは何処までも単に一なるものとして私を私の背後より限定し、私がそれに於いて生れ、それに於いて死するものと考えられてはならない。絶対の死の面と生の面とが単に同等と考えられてはならない。絶対の死の淵はただ、人間が神の背く時、自ら招くところの神の刑罰として存在するのである。人とあらゆる物との主は、またぜったいの死の主たるものである。人にとって避くべからざる絶対の力たる死も神にとっては単なる虚無に均しいのである。

     神は十字架に釘づけられ、地獄に降りたる人の子を蘇らしめ、天に挙ぐるところの神である(使徒信経)。死は何処までも死であり生は何処までも生である。しかし永遠の生は永遠の死に比すべくもなく強いのである。死の淵にありてなお、その恵みによって神の知に導かれたものの強さは、いつも神そのもののかかる力の反映にすぎない。

     それ故に私は、私は、この事態を絶対の死の面即生の面として、単に弁証法的一般者の自己限定の契機と考えることは許されないと思うのである。もしこれを強いて絶対の否定面即肯定面として弁証法的一般者の単なる契機と考えるならば、西田哲学のいわゆる弁証法も結局に於いて一つの誤魔化しにすぎないかの如き誤解を免れないであろう。「西田哲学の根本問題」(1936)
    『著作集 1』(法蔵館)35、37、39頁より

     

     

  • 【二番勝負】カール・バルト批判

    2017.11.24

    神から人への道は到る所に開かれている

     我々は我々の考察の過程に於いて、信仰が狭義に於いても、換言すれば認識としてもまた、ただ神から、神の子からのみ可能であることを、原理的に確認し、同時にまた信仰が聖書によって我々に可能とされることを事実的に洞察した。是に於いて、「神から」という原理的な可能性と「聖書から」という事実的な可能性とがいかなる関係に立つか、という問題が生ずる。

     人から神への道はないということは原則的に確認せられた。しかし正にそのことによって神から人への道は常に到る処に且つ時々刻々に開かれている、三一の神はただ彼が欲しさえするならば何時でも何処ででも、この世界の中に閃き来って自己自身を啓示することが出来る、ということが意味されていはしないであろうか。

     ・・・我々はキリスト者として、聖書の外で神について語ろうとする凡ての他の本や著述を、それらのものをただ一度も読むことなしに、頭から全く呪われた偶像崇拝であると断定しなくてはならないのであろうか。我々はキリスト者として、異教徒に対し、彼らが悪魔の子であるという、一歩も退き得ない前提を以て立ち向かうことを許されるであろうか。・・・「信仰の可能性について」(1935、独文)
    邦訳『著作集 2』(法蔵館85頁より

     

     

  • 【三番勝負】マックス・ウェーバー批判

    2017.11.24

    「如何にあるか」が「如何に生きるか」を指し示す

     ・・・彼のいわゆる「価値判断からの学問の自由 Wertfreiheit der Wissenschaft 」の理説が、彼の実践的情熱の欠乏ではなくして、むしろ一応は、徹底的に現実に即しようとする彼の科学的精神の現れであり、その禁止的警戒が、ただ、一方現代の暗さと複雑さに堪えかねて、性急に「如何に生くべきか」の究極的解決を求める多くの人々の弱さと、他方、かかる大衆の弱さにつけ入って自己の世界観乃至実践的立場を究極絶対のものとして強要する偽予言者どもの僭越にかかわるものであることを明らかにすることが出来たと思う。無論「時代の宿命」に関するウェーバーの論述が、様々な価値の分化抗争という新カント派的哲学に傾き、暗澹たる現代の物質的基礎の問題に触れることの余りに少ないということは、指摘せられなければならないだろう。・・・

     我々が現実に於いて「如何にあるか」の科学的究明を離れて、「如何に生くべきか」、「人生とは一体何であるか」の究極的解決を憧れ求めるということは、ウェーバーのいう如く、確かに我々の弱さである。・・・しかしそれにもかかわらず私は、最後に、一つの重大な疑問を禁ずることが出来ない。はたして我々は、ウェーバーのいうように、かの危険なる憧れを自ら棄てようとして徹底的に棄てることが出来るであろうか。我々が「時代の宿命」に堪えるということによってそれは根絶せられることが出来るであろうか。

       私は否と答えざるを得ない。何故なら、我々はもと、かかる憧れを自らもとうとしてもったのではない。我々が「時代の宿命」をまともに見詰めて、「人は究極に於いて何のために生きるのであるか」という問題の前に踏みとどまるという時、そこにはなお、出来うべくんば、この手をもってそれを把えようとする、物欲しそうなまなざしが残っているからである。

     ・・・徒に新しき予言者と、真正の救世主を待ち望むことをやめ、人生と世界との究極の意味を問うことをやめて、我々の各々がそれぞれその人生を操っている守神(デーモン)を見出し、且つそれに従って仕事に立ち還るべきであるという、マックス・ウェーバーの結論は、我々をして、その各々好むところに従って、アポロンとアフロディテと、その他数多の神々に供物を捧げ、そして最後に、或はむしろ最初に「知られざる神」の宮を祀ったという(『使徒行伝』第十六章)かのアテナイ人を思い起さしめないであろうか。・・・

     「新しいしかも真正な予言者」はすでに来ている。絶対に新たなる救世主は、すでに今ここに、私のところに、そうしてまた汝のところに立っている。キリスト・イエスとその証人の群、一巻の聖書が、我々の各々が究極に於いて何のために生き、如何に生きるべきかを語るであろう。・・・そこには、我々が「如何にあるか」ということの一厘も仮借するところなき根本的な認識が、同時に、「如何に生きるべきか」という問いの究極的な解決たらざるを得ないような、そういうあるものが指し示されているのである。・・・

     なおついでに一言するならば、マックス・ウェーバーがキリスト教神学について述べるところは、神学がその真の対象を見失った近代主義的キリスト教 Modernismus のそれに関わるものとしてのみ、一応正当な意義をもつことが出来るものである。ウェーバーが神学の真の対象に関して如何に盲目であったかは、彼の引用した聖書の語句の、ほしいままな、事態の全連関を全く無視した解釈に徴して明らかなことである・・・職業としての学問ーマックス・ウェーバーの講演に因んで」(1936)
    『著作集 8』(法蔵館)478~481頁より

     

     

  • 【四番勝負】カール・マルクス批判

    2017.11.24

    土台とその上に立つ物には不可逆な関係がある

     『ドイッチェ・イデオロギー』におけるマルクスの新しさは、かならずしも単に、宗教を始め人間生活の「精神的」側面に対する、「物質的」側面の「土台」的性格を発見し、強調した点にあるのではない。その「土台」そのものがいかなるものかを、その歴史の現実に即し、その本質の根源的な構造にまで立ち入って、真に学問的に究明しようと志した点にあった。

     典型的な資本主義社会の出現の過程にそうて発展してきた国民経済学の徹底的な研究は、かれをしてついに、「それを中心として経済学の理解が転回する跳躍点」として、「労働の二重性」の概念を批判的に確立せしめた。それはおそらく、『ドイッチェ・イデオロギー』のはじめに、歴史の大前提をなすものとして高揚された「物質的生産労働」そのものの、もっとも深くかくれた基本構造を、商品形態の分析・批判をとおして、始めて明らかにしたものといってよいであろう。

     ただしかし、それにもかかわらずマルクスは、「商品の二要因」に対応して、そのような「二重性を帯びた労働」・あるいは「労働しつつある人間」そのものに含まれていることとして私が前章に明らかにした根源的な包摂関係については、寡聞な私の知るかぎりあからさまにはついに一度も、これに言い及ぶことをしなかった。ところが、実際は、物質的生産労働が人間の生活・社会の第一の「土台」だということを、よしいささかの留保もなしに承認するとしても、この土台的行動そのものに、よくよく見ると、マルクスのいう「二重性」と不可分であるがそれとはまた全然意義を異にするところの、根本的な二重性が含まれているのである。

     なぜかというと、他の諸物を支配し、生産する主体としての人間の労働は、他の何ものの働きでもなくて、あくまで、そのような人間自身の能動的な働きである。ところがまさにこのことが、全然人間の働きによって成ったものではない規定・それに対しては人間的主体が全く単純に受動的であるほかない本質的な規定の支配のもとにのみ、実際に起こりうること、おこっていることなのである。

     それに対して絶対に受動的だということ、いかなる意味でも主体ではなくてまったくただの客体に過ぎないということは、人間的主体が動物と異なってあくまで選択的な主体でないということではない。むしろ全然逆に、絶対に避くべからざるその規定の支配の下にあることによってのみ、人間的主体は始めて人間的主体として、立ちかつ伸びることができる。

     その支配の包摂する範囲の外に出るということは、人間にとって全然不可能である。それと知ってにせよ知らずにせよ、その支配に背反して自己自身を維持しようとする人間ないし人間社会は、逆にかならず単なる虚無の支配を受けて、枯渇し、混乱し、滅亡しなくてはならない。

     それゆえに、われわれが「観念論的」な主観主義、人間生活の事実の厳粛さから浮きあがったイデオロギーのたわむれを脱するためには、われわれは、ただ「宗教その他のイデオロギーの諸形態」に対して、物質的生産労働の土台性を強調するだけではまだ足りない。どうしてもさらに一歩を進めて、物質的生産労働そのものに含まれているところの、根源的本質規定と歴史的形態規定とのあいだの、一種ユニークな包摂関係にまで立ち入らなくてはならない。

     砕いていうと、ふつうにいわゆる「土台」そのものにおける真実の土台とその上に立つ建物、前者に固有な根源的法則の支配と、その避けがたい支配の下に行なわれる人間の主体的活動とのあいだの、たがいに分離すべからず、混同すべからず、逆にすべからざる弁証法的関係を明らかにしなくてはならないのである。

     ・・・あきらかにそれを言い表わすにいたらなかったということは、おそらくかれ〔マルクス〕もまたかれの先輩たちと同じように時代の子として、近代市民的な「ヒューマニズム」の呪縛をまだ十分に脱しなかった証拠でもあろう。・・・〔しかし〕この「土台」そのものにおける「土台」とその上に立つものとの不可逆的な関係を正当に評価するということが、マルクスの「唯物論」の唯物論たる所以であろう。この不可逆的な構造を見失うかぎり、いかに「土台」の優位を強調しても、ひとは極端に空虚な「観念論」に落ち込むことをまぬかれない。「現実にあるがままの個人」とは何か」(1957)
    『著作集 6』(法蔵館)67~99頁より抜粋