• 滝沢克己の人と人生

    2017.4.11

    1909年生まれ、1984年没。九州大学教授、ハイデルベルク大学名誉博士。専門は哲学、神学。

    西田幾多郎、カール・バルトの影響を受け、人間存在の根底に横たわる、神と人との「不可同・不可分・不可逆の原事実」を説く。

    これは禅仏教の覚醒の場所に、キリスト教の福音がまさにやってきていた、ということの表明そのものである。

    つまり、神と人とは「付かず・離れず・順序を逆にできず」、人がそれに気づこうと気づくまいと、ただ単に接触していた。

    これが人間存在の原点であり、このことの覚醒が、人間をまったく新しい生の生かしへと導く。

    人間存在を支えるこの単純な「原事実」に立って生き、かつ語ることを、滝沢は生涯貫いた。

    「原事実」とは単なる真理の表現に止まらず、滝沢の人間的魅力の源でもあった。

    滝沢の語りは極めて多岐にわたり、哲学、神学、仏教、近代文学、経済学、芸術論、日本論、物理学等に及んだ。

    晩年はそれらを体系的に見通す「純粋神人学」という独自の学問を構想。

    創造の泉から湧くその語りは尽きることなく、未完のことばは無限の展開の可能性をはらんでいる。

  • 略年譜

    2017.4.8

    1909年(明治42年)3月8日 宇都宮に生まれる。小・中学と1年飛び級
    1924年(15歳) 第一高等学校(現・東大駒場)入学
    1927年(18歳) 東京帝国大学法学部仏法科入学。進路に悩み、10月退学
    1928年(19歳) 九州帝国大学法文学部哲学科入学
    1931年(22歳) 九州帝大卒、卒論はH・コーエン論。5月より副手。
    1932年(23歳) 小笠原としと結婚。西田哲学に没頭する
    1933年(24歳) 西田論「一般概念と個物」が「思想」に掲載。西田から激賞される。フンボルト協会給費生として10月にドイツ留学
    1934年(25歳) 4月からボン大学でカール・バルトに師事
    1935年(26歳) ブルトマン論がバルトに認められる。8月に帰国 
    1936年(27歳) 九州帝大哲学科助手。『西田哲学の根本問題』刊行
    1937年(28歳) 山口高等商業学校に赴任 翌38年教授に
    1941年(32歳) 『カール・バルト研究』刊行
    1943年(34歳) 九州帝大嘱託講師(週1回、西洋哲学)『夏目漱石』刊行
    1947年(38歳) 九州帝大哲学科哲学専任講師に
    1948年(39歳) 同大助教授
    1950年(41歳) 同大教授
    1958年(49歳) 福岡社家町教会にて洗礼を受け、クリスチャンに
    1961年(52歳) 九州大学文学部長に(63年まで)
    1964年(55歳) 『仏教とキリスト教』刊行
    1965年(56歳) 八木誠一との20年にわたる論争が始まる。ドイツに招かれ、30年ぶりにバルトに再会。 ゴルヴィッツァー、ハイデガー等と対話
    1968年(59歳) 九大構内にジェット機墜落 全共闘とかかわる
    1969年(60歳) 東大全共闘議長・山本義隆と往復書簡(「朝日ジャーナル」で4回)。『大学革命の原点を求めて』刊行
    1971年(62歳) 5月12日付で退官(定年まで1年を残し辞職)
    1972年(63歳) 法蔵館から著作集全10巻が刊行(75年完結)
    1973年(64歳) 『日本人の精神構造』刊行
    1974年(65歳) ドイツに招かれ、ハイデルベルクほかで客員教授。(7月より1年間)
    1976年(67歳) マルコ伝講座をひらく
    1977年(68歳) ドイツ・マインツ大学で客員教授(78年4月まで)
    1978年(69歳) 12月3日、末娘・比佐子逝去
    1979年(70歳) ドイツ・エッセン大学で客員教授(4~10月)。帰国後眼病発症。『続仏教とキリスト教』刊行
    1980年(71歳) 手かざし治療に通い始める(亡くなるまでほぼ毎日)
    1981年(72歳) マタイ福音書講座、日本人の精神構造講座をひらく
    1984年(75歳) 6月26日急性白血病で死去。9月ハイデルベルク大学より名誉神学博士号
    1988年      『純粋神人学序説』刊行

    ただ単純な事実によった人生の経歴の中で、滝沢がなし得た仕事とは?