• (11)浜田義文の声-民衆の生活感情の真実ー

    2017.11.24

    日本人のナイーブな生活の仕方の中には、僕はその意味ではむしろ西洋の近代人よりは、あるまっとうな感覚が、非常にもろいからすぐそれはファッショ的なものにももってゆかれるけれとも、だからといって戦前にファッショ的なものにもってゆかれたから全部これは封建的で、いかんというふうにしてしまったのでは、いくら経ったって逆に日本において近代的なものが入ってこないと思う。これは戦術の問題じゃなくて、人間が生きているということのなかに、ナイーブな人の場合においてかえって原点の問題がそれなりにやっぱり生きており、そういうことが直観的につかまえられていると感じますね。哲学者がそれをはっきりと捉えて、問題にして出さないと、いつまで経っても僕は日本に近代は根づかないし、近代が超克(傍点)されねばならぬというふうなことが繰り返されていくように思われる。そこのところを滝沢さんが手がけ、あるいは日本民俗学とか、そういう方面の人がやっているわけですね。
      それは非常に必要なことなのに、日本の哲学者はやっぱりそういうところを落としている。その点を滝沢さんについても積極的に評価すべきで、だから天皇制についても僕はその論文を読んでいませんけど、明治以後の天皇制と区別してもう少し前の民衆の生活のなかでのそういう感情は切り捨てられるべきものばかりでもないだろうし、それを評価することが保守主義にいくというふうに考えたのでは、何も出てこないという気がするわけです。『畢竟』〔法蔵館、1974)158,9頁より、浜田義文の発言

     

    浜田義文は元法政大学教授、カント哲学・倫理学が専門。

  • (12)星野元豊の声―仏教を問う、両教対立を超える道ー

    2017.11.24

    仏教では、何ぼはたらいても、まあ精々草を刈る程度ですね。ご指摘のように今までの仏教では「動」といっても、それが歴史を作ってゆくということになっていない。これは仏教の反省すべき点でしょう。私から言わせれば、仏教者は今までのこころの高あがりをやめて本当に謙虚になるべきだと思います。今まで歴史だ、社会だ、社会実践だといっていても、仏教者のそれはそれこそ前近代的、非科学的ですが、それをちっとも気がつかない。もっと謙虚に歴史・社会をみることから学ぶべきだと思いますが、しかし根本的に仏教のどこからどう反省すべきかということが問題ですがね。この点で、滝沢さんの第一義・第二義の接触点の問題提起は意味があると思うのです。滝沢さんの言葉で言えば「神において神でない人間存在が決定され、基礎づけられている」とか、「個は神ご自身の表現点である」とかいうこの点    こんないい方はいかにもキリスト教的、有神論的にひびきますが、そんな言葉にとらわれないで、事柄の本質をとらえて  を仏教の上で徹底的にはっきりさすことだと思います。私はそれが仏教にあると思うし、できると思う。それをはっきりさしてこないことには、歴史だ社会だといっても、歴史を創造するどころか次の時代に生きることさえおぼつかない。『畢竟』(法蔵館、1974)231,2頁より

     

    それは仏教でもそうでしょうね。久松真一先生がキリスト教を有神論といって、それと対立的に仏教を立てておられるようなものを、僕はそこで越えられるのだと思いますね。その越えられる道をこの『仏教とキリスト教』で滝沢さんが指しておられる所は、大きな問題提起として高く評価されるべきで、みんなが受けて立つべきだと思いますね。『畢竟』(法蔵館、1974)247頁より

     

    星野元豊は元龍谷大学学長、親鸞研究者、宗教哲学

  • (13)中村悦也の声―キリスト教伝道の道ー

    2017.11.24

    本来、信仰をもつということは、人間が人と人として素朴に触れ合い、お互いに活々と生きるということ、そして生きることが喜びであるという事実を作ることでしょうし、僕はイエスによって如実に出てくるはずのものはそれだと思うのですが、それが何か変な狂信におちいってしまう。そのために宗教というものが非常に陰湿なものになってしまう。素朴なキリスト論の非常に大切な問題と、学問的な問題の根源とがはっきりしていないと、キリスト教会は非常に歪んでくるし、それが教会の現状なんです。教会の中でも本当に対話といえるものが出てこない。教区総会なんかでも、そこの所がはっきりしていないがために、非常につまらない争いがいっぱい出てきている。僕はそういう気持ちがあります。結局は滝沢先生のおっしゃるようなキリスト論の立場でないと救いはない、と僕が思うようになった。滝沢先生との出会いの土台は、そういう僕の素朴な経験なんですね。滝沢先生のキリスト論に接して初めて牧師が、人間として語られるような気持になってきた。ここで初めてキリスト者は、他者を物量化し改宗させる厭味のある伝道から解放され、神の福音のこだまをお互いに確認し、喜びあう他者との関係に入ることができるのだと思います。『畢竟』(法蔵館、1974)243頁より

     

    中村悦也は京都洛東教会の現役牧師。ユニークな教会運動をしている。

  • (14)上野圭一の声-新しい医療の考え方の基礎ー

    2017.11.24

    CAM〔補完代替医療の略〕をかんがえる場合、滝沢氏のこの考察からは学ぶべきことがたくさんある。たとえば、身体性・精神性・霊性を統一的にみるホリスティックな人間観である。…滝沢氏の考察から学ぶべきもうひとつの点は、「その人の単なる恣意(私心)にはよらない自然治癒力が、いわば『逆限定的』にはたらきつつある」という指摘である。つまり、自然治癒力(自発的治癒力)は「すでにそれ自身のうちに、それとは逆の(人のではない)神のはたらきを『含んでいる』」ものだという認識である。『補完代替医療入門』(岩波アクティブ新書、2003)100、104頁より

     

    CAMとはComplementary & Alternative Medicine の国際的な略称で「カム、キャム」と訓む。近代西洋医学が排除した医療で長く残ってきたものすべてを含むようだが、サプリメントなども含まれる。上の引用は誤解をふせぐため最小に止めてある。   この分野独得の用語は文脈抜きに引用しずらい。肝心な点は、アメリカでは広く流布しているこの医療が近代医療の限界を超える未来の医療として登場していること、そこで滝沢の身体論が基礎理論として注目されているという点である。
      なお、上野圭一は翻訳家・鍼灸師。日本ホリスティック医学協会副会長などで活躍。A.ワイルの著書の翻訳などで著名。